Hyakuyo's Box

Hyakuyo's Box

降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理】「喪の作業」と降谷さん

 景光さんの死と降谷さんの関わりについてはいつかきちんとまとめたいと思っていたのですが、どう考えてもひとつの記事ではまとまらないので少しずつ書いていきたいと思います。

 

 今回は精神分析において「死」を考えるにあたり基本の1つとなっている、「喪の作業」という概念から降谷さんに迫りたいと思います

 

 精神分析の世界では、人は愛する人を失ったときから「喪の仕事」あるいは「喪の作業」と呼ばれる心理的なプロセスを辿ると考えられています。

 愛する人を失ったときに感じる悲しみや痛みを乗り越え、その人がもういないという現実を受け入れていく心のプロセス。この概念を最初に出したのは例によって天才・フロイト先生です。

 フロイトは次のようなことを言っています。

 

「現実的には愛着の対象を失っているのに、心の中ではその対象への思慕という感覚が持続するため、人は心理的苦痛を感じる」

「人はこの苦痛に耐えながら、愛着の対象を元どおりに修復しようとする。その修復の過程が『喪の仕事』である」

「『喪の仕事』のプロセスを経て、人は失った対象から少しずつ離脱し、新しい対象を再び求めることができるようになる」

 

 …ざっくり言いますと、

「現実ではもう愛する人は死んでしまったのに、自分の心にあるその人への愛情は簡単には消えない」

「それが悲しくて苦しいから、何とか愛する人がまた戻ってこないかなとか頑張ってみる」

「最終的には、もう愛する人はこの世界にはいないんだということを受け入れ、また他の人を愛せるようになる」

みたいなことです。

 

 この説をさらに詳しく探求したのが、ボウルビィというイギリスの精神科医です。この方はフロイトを始祖とする精神分析の方ではありますが、フロイトが何でもリビドーで説明しようとすることに「それは違うんじゃないですかね…」と反論した学者の1人です。

 ちなみにこのボウルビィの大きな仕事の1つが、愛着理論についての実践的な研究です。彼は第二次世界大戦後のイタリアの乳児院で乳幼児を研究し、お母さんから無理に引き離されたあかちゃんは精神的な問題が現れたり病気に対する免疫力が低下したりすることを明らかにしました。これは「母性的養育の剥奪」と呼ばれ、のちにWHO(世界保健機関)が親を失った子どもへの福祉プログラムを作るときの元となっています。

 

 このボウルビィさんが愛着理論を基盤のひとつとして考えたのが「喪の作業」です。彼はフロイトの「喪の仕事」という考え方を受け継ぎ、「人は愛する人を失ったあと、時間の経過とともにこういう心理状態になる」という4つの段階を考えました。

 日本には「時間ぐすり(時間の経過が心の痛みを癒す薬である)」という言葉がありますが、それを死について理論化したもの、とも言えます。

 

1、麻痺

 無感覚の段階です。一種の急性ストレス反応で、人にもよりますが1週間ほど続くと言われています。愛する人を失ったという事実に呆然とし、その死を現実に起こったものとして受け止めることができない状態です。この段階のときに妙に落ち着いてしっかりした行動をとる(葬儀の段取りをしたり必要な連絡をしたり)人もいますが、これもまた麻痺ゆえに起こる行動の1つであると考えられています。情緒的に危機的な状態にあることは変わりません。この段階で怒りや空虚感をあらわにする人もいます。

 

2、抗議

愛する人を失った」ということが徐々に現実のものとして認識されます。一方で現実を受け止めきれず、「そんなはずはない」という喪失に対する否認がまだ残っている状態でもあります。故人に持っていた愛着が深い苦しみとなり、悲嘆が始まります。死の責任の所在について、怒りや抗議の気持ちが現れるのもこの段階です。その怒りや抗議は「なぜ自分を置いていったのか」という故人への怒りや、「自分がこうしていれば」という自責の念、罪悪感という形をとることもあります。自分への怒りを第三者に投影することで外在化し、そこに対して怒りを向ける人もいます。

 

3、絶望

愛する人がもういない」という現実を認める段階です。愛着の行き場が断たれたということが現実のものとして実感され、愛する人が存在していることを前提に成り立っていた精神生活が安定を失います。人生そのものに意味を見出せなくなり、大きな失意を感じて抑うつ状態になる人もいます。苦しみに押しつぶされて希死念慮を抱くこともあります。

 

4、離脱

 対象を「故人」として受け入れることができるようになる段階です。その思い出は痛みを伴いながらも穏やかであり、肯定的なものとなって「愛する人のいない現実」の中で生きていくことができるようになります。故人の死に社会的な意味を持たせたり、その人が生きた意味を自己の中に穏やかに馴染ませていくことができる段階です。

 

 このプロセスは必ずしもこの順番できれいに進むとは限らず、行きつ戻りつしたり、重なりあって発生したりすることも多々あります。また、ある段階に長くとどまる人もいれば、段階を1つすっ飛ばして次に進む人もいます。心理学では、このようなプロセスは多かれ少なかれ誰にもある、ということを基本的な考えとし、あとはケースバイケースとして柔らかく捉えています。

 

 降谷さんは景光さんの死について、おそらく「喪の作業」のまだ前半部分にいると考えられます。あるいは、エレーナさんや警察学校の仲間の死についてもまだ「喪の作業」は終わっていないかもしれません。あまりにも多くの人の死を経験した降谷さんにとって、この作業はとても複雑なものになっているはずです。

 

 さらに「喪の作業」についてもうひとつ、降谷さんに深く関わる概念があります。

 

 それは、「喪の作業」がスムーズに進まない場合についてです。もちろん、心のありようや愛する人との関係はひとりひとり違うものなので、スムーズに進まない人もいて当然です。ただ、その要因の大きさや多さによっては、「喪の作業」があまりにも深く痛みを伴うものになってしまうのです。

 パークスという精神科医は、「次のような場合は『喪の作業』が難儀になり、苦しみが長引いたり余計に深まったりするよ」ということを明らかにしています。

 

1、死が予期せぬ突然のものだった場合

 病気による突然死、災害や事故、予兆のない自殺などです。この場合、残された人には自責の念や不安が多く残る傾向があります。

 

2、初期の段階で悲嘆の感情をすぐに出せなかった場合(遅延)

 何らかの理由で、悲しみや怒りといった感情表出がすぐに行えなかった場合です。数か月後に表出されることもありますが、すぐに表出できた人と比べると、その方法は非常に破壊的だったり強烈だったりすることもあります。

 

3、悲嘆の感情を抑えこまなくてはならなかった場合(抑圧)

 2と同じ現象ですが、特に「表出を抑えなくては」という意識的な努力を積極的に行った場合です。仕事などに打ち込むことで悲嘆の感情を抑えつけます。これは愛する人を失った悲しみという自然な感情から強迫的に目を背けるという、一種の防衛です。

 社会生活には問題がないため、一見ショックから立ち直っているように見えるのですが、時間が経過してから突然うつを発症したり、命日が近づくと心身症の症状が出てきたり(「命日反応」といいます)、対象の死因を模倣する行動を取ることもあります。

 

4、対象に対して強い愛着や依存を持っていた場合

 愛着と依存は違います。が、「故人の存在が自分が生きる意味と深く大きく関わっていた」という場合、喪失感は当然のように大きくなります。

 

5、生前の故人と何らかの心理的葛藤があった場合

 生前、対象と諍いがあったりした場合には、対象喪失後に自責の念や罪悪感が深いと言われています。これは、生きているときの対象に向けられていた怒りが内向し、自分を責める衝動となるからと考えられています。

 

 もうここまで書いたら、あとははっきりしていると思うのですが…。

 パークスの説に、降谷さんはほとんど当てはまってしまいます。幼い頃から互いに簡単には処理できない感情と葛藤を抱えながら、共に警察官という職業を目指してきた親友。「ワイルドポリスストーリー」で垣間見える2人の様子からも、降谷さんにとって景光さんは特別な存在であることがわかります。

 そのような人を極限の状況で自殺によって突然失い、しかもその死について十分に悲しみを表現することは許されず、感情を抑圧し、先延ばししたまま社会的な役割を果たし続けなくてはならない。それが今の降谷さんです。

 

 景光さんが亡くなったことを、降谷さんは「知って」います。でも、心は別です。

「知っている」と「受け入れている」はまったく違います。心と身体を分離させ、仕事を完璧に処理しながらもどこか現実感を喪失した状態で景光さんの死を捉えている。降谷さんはそのような状態なのではないでしょうか。

 

 たとえばゼロティ1巻において、降谷さんは景光さんたちの夢を見ています。

 故人が夢に現れるとき、そこに登場する故人がどういう状態であるかということは、夢の主の心を反映します。たとえば夢の中で故人がまるで今も生きているように一緒に遊んだり話しているなら、夢の主はその死を否認している心理状態であると言えます。逆に「自分はもう死んでしまったからね」と故人が夢の主に語るような内容は、夢の主はその死を受け入れつつあるしるしと捉えられます。

 あの4人の夢と「早く来いよ」という台詞、そしてその直前にPCの写真を見る表情。ここには、もう4人が故人であるという認識と、彼らともういちど同一化したい、もういないという現実を完全には受け入れたくないという思いの間で揺れる降谷さんが表現されているように見えます。

 彼らの死を「認識はしているが受け入れてはいない」心理が現れているのではないでしょうか。

 

「認識はしているが受け入れられてはおらず、かといって悲嘆の感情を表出することは抑えこまなくてはならない」というこの状態と、生来の真面目な性格の合わせ技によって、今の降谷さんはいると考えられます。「安室透」や「バーボン」の周囲の人に、彼が愛する人を何人も亡くし、悲しみを抑圧して笑っているということなど絶対に気づかれてはならない。それは正体に近づかれる「隙」に他ならないからです。

 ただ降谷さんにはたった1人、生々しい感情を表出している対象がいます。それが赤井さんです。

 赤井さんへのやや度を逸した怒りと執着は、降谷さんの置かれた状況を考えればあってはならないことです。ただ「喪の作業」という流れの中で見たときには、赤井さんに対する降谷さんの怒りはむしろごく自然なものとして捉えられます。愛する人を失ったときには、悲しみであれ怒りであれ、何かしらの感情を表現しないことの方が不自然なのです。

 降谷さんは、今の自分の状況で許される範囲の「喪の作業」をしているのだと思います。それを受け止める対象として無意識であるにせよ赤井さんを選択し、怒りや憎しみという形で悲しみを表現している。それによって、心のバランスを保っているように見えます。

 

 いつか降谷さんは、抑圧していた悲しみを解放することから始まる、本格的な「喪の作業」をするのだと思います。それが具体的にどのような過程をたどるのかはまだわかりません。ただ、あまりにも多くの死と向き合い、受け入れなくてはならない降谷さんのその作業には、おそらく「命がかかる」と言っても過言ではないほどの苦痛が伴います。

 それをひとりで乗り越えるのはあまりにも厳しいことのように思いますし、また、これほどの苦難の中で生き抜いてきた降谷さんだからこそ、それをひとりで背負ってほしくはないという気持ちというか願いが読者としてはあります。

 

 また、私が今もっとも考えていることの1つに、「景光さんの遺体を降谷さんはどうしたのか」ということがあります。遺体と死を受け入れることとの間には深い関係があるので、それについては別記事で書きたいと思います。