Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理・所感】桜と命と降谷零

※本記事では『ゼロの日常』について深く言及しています。未読の方はご注意ください。

 

 本誌の最新エピソードで降谷さんと桜が描写されたことに心を打たれたのは私だけではないと思います。カラー表紙に続いて、今回が2度目ですね…。

 なぜか降谷さんには桜が似合います。桜と降谷さんの生き方には親和性があるというか、桜を置くことで降谷零という人の精神性がより強調される部分があって、それに多くのファンが心を震わせているのではないかと推察します。

 

 また、降谷さんが作中で散る桜の花弁を五枚掴み、「桜の花弁は五枚で一つ…」と呟いていること、桜から警察学校を連想していることから、降谷さんにとっても桜は特別な花であることがわかります。

 

 そこで今回は、「桜」が象徴する心理に降谷さんを重ねてみたいと思います。心理半分、所感半分みたいな文章です。

 桜と降谷さんについては多くのファンが既にいろんな形で表現されていると思うので、私が今更長々と述べるのもおこがましいのですが、自分の思考の記録として書いておきたいと思います。よろしければお付き合いください。

 

 まずは「象徴としての桜の心理学」を簡単にまとめます。

 

 日本人は桜が好き、というのはほぼ定説な気がしますが、古の時代には桜より梅に人気が高かったようです。『万葉集』においては梅の歌が116首に対して桜は42首で圧倒的に梅に軍配が上がります(ちなみにいちばん多いのは萩)。

 

 ただ、『万葉集』には桜児(さくらこ)という女の子のごく短いお話と歌が載っていて、2人の男性の好意の間で悩んだ桜児ちゃんが心を千々に乱れさせた結果、自死してしまう…という悲しいストーリーなのですが、やっぱりこれを読むと日本人が桜に持っているイメージは昔から「儚さ」とか「死」なのかなあと思ったりもします。

 

 また、既読の方も多いであろう「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で有名な梶井基次郎の短編。薄羽かげろうの死体の塊を見て桜の得体の知れない美しさと「屍体」を結びつけた夭折の天才・梶井の文章がこれほど人の心を掴んだのは、やっぱり桜に「死」を連想する人が多いからなのではないでしょうか。

 

 その他にも西行とか本居宣長とか坂口安吾とか、国文学を紐解けば枚挙に遑がないほど桜は出てくると思いますが、日本人の桜観には「死」とか「儚さ」というイメージがどうしてもついて回ります。

 

 ところで、「儚い」というのは実は心理学的にはそれほど儚くない概念です。

 儚さというのは一見弱々しいものというイメージがありますが、実は「あまりにもさらりと消えてしまった」ものというのは人の心に強い印象を残します(シャボン玉等を使った実験でも実証されています)。

 また、心理学で「喪の作業」といわれる身近な人の死を受け入れるまでの心理的葛藤は、一般的に「長い闘病の末に失った」ときよりも「突然失った」ときの方が強く激しくなります。中には乗り越えられずに精神疾患をわずらったり、希死念慮(死にたいという気持ち)を抱いて本当に実行してしまう方もいるほどです。

 

 これは当然といえば当然の人の心の働きで、予期できるものに関しては、人はあらかじめ準備をすることができます。人はいつか死ぬ。永久不変のものなどこの世にはない。それは普段は意識していなくても誰もがわかっていることで、人の心はまた、それを受け入れることができる構造をきちんと持っています。

 たとえば「宗教」というのは心理学的に見れば、「大切な人が目の前からいなくなってしまう」という本来ならとても耐えられないことから自分の心を守るために発明された防衛装置という側面があります。

 

 ただ、「失われる」ということがあまりにも突然現実になると、人は思いの外打ちのめされてしまうものでもあります。

「ついさっきまで確かにそこに生きていた命」が失われたとき、大切な人を失った悲しみとともに、自分の命というものも実はとても儚いものなんだ、ということに人は気づき、「自分の死」がぐっと身近に感じられます。それは生きているということの危うさを突きつけられる体験でもあり、当たり前だと思っていた自分や身近な人の生を疑う体験でもあります。

 戦争や震災でPTSDを発症した方を襲う苦しみには、この「生への疑い」が強く関係します。

 

 これほどまでに「消えていくもの」を受け入れることは人間にとって難しいのに、どうして日本人は桜が好きなのか。

 フロイト的に言えば「死の欲動」かもしれませんし、ユング的に言えば「普遍的無意識(人類が普遍的に持っているイメージで、これが個人の心の基礎であるとユングは考えた。大地=母とか)」かもしれません。心理学だけではなく文化人類学や国文学の中でも、これに迫っている研究は多くあるのではないかと思います。

 

 また、桜には別のイメージもあります。「始まり」とか「希望」とかです。サクラ組の思い出がある新一くんや蘭ちゃんにとっては、きっと今はこちらのイメージの方が強いだろうと思いますし、それもまた心の動きとして否定されるものでは決してありません。

 たとえば箱庭療法を行なう中で、クライエントさんが箱庭の中に桜を置いた場合、それが「希望」を示すのか「死」を示すのか、あるいはもっと別の意味を持つのかというのは一概に断定はできません。その人を取り巻く状況や周囲に置かれたものから総合的に判断し、その人の心がいまどのような状態にあるのかを見極めることによって、その桜が表すものを考えるのが心理学でもあります。

 

 実際、読者が新一くんたちに重ねる桜のイメージと、降谷さんに重ねる桜のイメージにはかなり違いがあるのではないでしょうか。

 

 私は今まで、降谷さんと桜といえば「日本警察の代紋」を連想し、「守るべきもの」「決意」の表れが強いと見ていたのですが、今回警察学校編の始まりに桜が使われたことから、「大切なものを共有した仲間」と「警察」というものがあいまって、降谷さんのメタファーとしての桜にはもう少し深い意味があるのかなあ、と思うようになりました。

 

 ただ、降谷さんと桜を語るにあたっては、桜が連想させる「死」という言葉よりも、「命」という言葉を使うべきなのではないか、という気がします。

 

『ゼロの執行人』において、降谷さんは「命」という言葉を口にしています。

「僕には命に代えても守らなくてはならないものがあるからさ」

 これは小五郎さん逮捕の際に「何でこんなことするんだ!」というコナンくんの質問に対して発された言葉ですが、ここで「僕には守らなくてはならないものがあるからさ」に加え、「命に代えても」という言葉が入ることにはどんな意味があったのでしょう。

 もちろんこの言葉に降谷さんが込めた最も大きな意味は、松田さんたちがそうであったように、守るべきもののために生命を賭けるという決意だと思うのですが、よく考えるとちょっと違和感を感じるやりとりでもあるのです。

 

 それはなぜかというと、「なんでこんなこと(=犯人捏造という汚いこと)をするんだ」という問いへのアンサーとして、「命に代えても守らなくてはならないものがある」というのは、答えになっているようでなっていないというか、微妙なズレのあるやりとりでもあるからです。

 つまり降谷さんはコナンくんの問いを問いとしてではなく「こんな汚いことをしてあなたは平気なのか?」という自分へのなじりとして受け止め、自分の信念を伝えることでコナンくんとの決定的な立ち位置の違いを示したのではないかとも思います。だからこそコナンくんは、降谷さんを「敵かもしれない」と認識したのではないでしょうか。

 

 降谷さんは、確かに守りたいもののために生命を賭けている。でもそれと同時に、そう簡単には死なないことも決意していると思います。五弁の桜の最後のひとひらである降谷さんにとって、自分が生き続けることは、警察官として最後まで職務を全うした仲間たちが確かにそこに生きていたということの証でもあるのではないかと思うからです。

 この自己存在意味がある限り、降谷さんは軽率に命に言及するような発言は絶対にしない気がします。

 

 では、「命に代えても」の「命」とは、生命以外ではいったい何なのでしょう。

 

 それは、「自分(降谷零)という存在」なのではないかと思います。

 心理学においては、人間が存在するということは、他者と関係を作るということと同義です。「人が意味あるものとして存在する」には他者が必要で、「誰かと関係する」ということで初めて人は人として存在意味を持ちます。

 私は以前の記事の中で、安室さんという人は降谷さんが任務遂行のために意識的に演じている人格であると思う、ということを書きました。この意味において、安室透である降谷さんはおっちゃんや蘭ちゃんたちと本当に「関係している」とは言えません。彼らとの関係性はあくまで安室透という別人格のものであり、降谷さんの存在意味を生み出しているとは言い切れないところがあると思うのです。

 

 もちろん、市井の人たちがポアロに立ち寄ってコーヒーを飲んでいく姿を見ることは、降谷さんにとってかけがえのない時間だと思います。死というものをあまりにも心と体に染み込ませてしまい、人々が当たり前に暮らす幸せな世界にはもう戻れない降谷さんは、ちょっと遠くから、まるで眩しいものを見るように彼らを見ているのだろうと推察します。だからたとえ安室透が演じられている人格であるのだとしても、あの笑顔はきっと嘘ではないのだろう、と。

 

 一方で、やっぱり降谷さんにとってそこは「自分のいるべき場所」ではないし、そこに本当の自分はいない。それは本誌でのお花見における「たまにはこういうのも悪くない」という発言からも推察されます。降谷さんにとって自分はあくまで警察官であり、生きる意味もそこにある。そういう意味で、やはり安室透は決して降谷零ではないのだと思います。

 降谷さんは潜入捜査を続けている限り、降谷零として人と関係することはありません。ゼロに所属してからおそらく誰に対してもそうなのであろう降谷さんにとって、「素の降谷零」として人と関係した…「自分という存在として生きていた」のは、作中の時系列と降谷さんの年齢を照らし合わせて見ると、警察学校の仲間たちと過ごした日々が最後なのではないかと推測します。

 トリプルフェイスの仮面を被り、自分が自分であることの存在意味などかなぐり捨てて、降谷さんは大切なものを守ろうとしている。それが「僕には命に代えても守らなくてはならないものがある」という発言のもうひとつの側面なのだとすれば、降谷さんはこの発言において「守るべきもののため、降谷零としての中途半端な良心などもうとっくに捨てた」と言っているも同然です。

 

 おそらく降谷さんには、大切なものを守るために誰よりも汚れる覚悟をした瞬間が幾度となくあったのだろうと思います。汚れていく生活の中で目的を見失わない強さがあり、『ゼロの執行人』の中ではおっちゃんを逮捕する一方で、羽場さんを生かす道を見出したことに表されるような心も持ち続けているからこそ、降谷零は降谷零なのだとも。

 その「汚れる覚悟」「降谷零でいることをかなぐり捨てる覚悟」「それでも人としての心を持ち続ける強さ」は、同期たちの死を経験する過程で少しずつ深まっていったものなのではないでしょうか。

 

 今回のお話で、降谷さんは桜の花弁を5枚掌にのせ、「願いが叶うおまじない…か…」と呟いています。

 その後、車に向かって歩いていく降谷さんの背中は、それぞれの思いを抱いて殉職していった4人の命を背負っている背中にも見えます。ただそれは、決して背負いたくて背負ったものではありません。できることなら彼らに生きてほしかった。それはきっと降谷さんの切なる願いだと思います。

 もちろん、覚悟を決めて仕事をしている降谷さんは、彼らが決して簡単に死んでしまったわけではないことも、その死と引きかえに大切なものを守ったことも誰よりもわかっていると思います。だから降谷さんは、願いを口にすることはない。「生きていてほしかった」を口にすることは、彼らそれぞれが殉じた決意や誇りを尊重することと相反することだからです。

 でも同時に、降谷さんにとっては自分も含めた警察学校の同期5人の命があったときこそが「花」だったのであり、もうその花が完璧なかたちを取り戻すことはないのだとしても、やはりその花が鮮やかに咲いていた時間が確かにあったことをこの世に留めておきたい気持ちがあるではないでしょうか。

 

 降谷さんが松田さんたちのために生きているのだと言いたいのではありません。

 降谷さんに「誰かのために自分が犠牲になる」という甘えはおそらくないのではないかと思います。原作や映画における降谷さんの働きは、他人からの評価を求めている人のものではないと思いますし、だからこそ彼は表立って賞賛されることは決してないゼロという部署であれだけリミッターの外れた働きをするのだと思います。

「俺は誰に言われたわけでもなく、俺が守るって決めたものを守るからな!そのために汚れることに俺はめちゃくちゃ納得してるからな!」(一人称は「僕」かもしれない)という振り切った感というか思い切りが、冷静な判断力とともに降谷さんにはあるように見えます。

 その根底にあるのは、髪や肌の色によって疎外され続けた自分を愛してくれた景光くんであり、エレーナ先生であり、警察学校の仲間たちの存在なのではないかと思います。愛を知らなかった(と私は勝手に思っている)からこそ、受け取った愛の尊さを誰よりも身にしみて感じたであろう降谷さんにとって、「誰かの無償の愛を受け取る」ということは「誰かに心を守られる」体験だったのではないかと思います。そしてそれによって作られた強い心で、自分の力の及ぶ限りの人たちを守っていこうと心に強く決めたのではないでしょうか。

 たとえ自分の働きが誰にも気づかれることも感謝されることもなく、ときに「汚い人間だ」と非難されるのだとしても。

 

 それでも、これほどまでに強靭な精神力を持つ人である降谷さんと「死」「儚さ」を匂わせる桜に親和性が高いのは、その強烈なまでの命のあり方が「危うい」からなのだと思います。降谷さんの心にはいつも警察官としての誇りを胸に殉職した仲間がいて、降谷さん自身も警察官としての誇りと意志にいつでも殉じる覚悟を決めているのだろうな、と思うと、それは潔く咲いて散ってしまう桜とどうしても重なります。

 でもやっぱり、降谷さんにはその命をしぶとく全うしてほしいし、警察学校の仲間たち4人を心に置きつつも、いま生きている誰かとの関係を降谷零として作ってほしい、と思ってしまう部分も一読者としてはあるのです。

 降谷さんが愛した人がみんな降谷さんに先立って死んでしまうわけではない。降谷さんのその生のあり方を十分に理解しつつも、降谷さんが覚悟を決めてそれに殉じようとするときに、がしっと強く腕をつかんで「死ぬのはまだ早い。なぜならきみは一人で闘っているわけではないから」と力強く言ってくれる「確かに生きている誰か」にいてほしいと思ってしまうのです。

 

 原作者の先生が「安室には孤独が似合う」と仰っているにも関わらず、私が赤井さんやコナンくんにその夢をつい見てしまうのは、読者としてのエゴかもしれません。

 それでも、降谷さんが五弁の桜花の最後の花びらとして散る前に、「こんなにも強く現世に自分を繫ぎ止める人たちがいる」と強く感じ、闘う姿を一ファンとしては見ていたいのです。

 緋色組というのは、安室透でもバーボンでもない「降谷零」が、素顔の自分の存在意味を存分に味わいながら共に闘える人たち、降谷さんに最も「生きている」ということを熱く感じさせてくれる人たちなのではないかと思っています。