Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【所感】青春の影〜その瞬間、少年たちは大人になる

 とにかくWPSの松田くんはかわいいな!と思います。やんちゃで直情的、愛想はないし無礼だけれども友達思いで憎めない。

 その松田くんがサングラスで表情を隠し、喪服を着続けて爆弾犯を執拗に追い続ける男になることを、読者である私たちは知っています。市民を救うために観覧車で爆死することも、そしてそれがすべて萩原くんの死に端を発することも。

 

「大人になる」ということを発達心理学的に定義するのは難しいのですが、統計的にも社会感覚的にも、思春期の男の子は女の子に比べて発達が遅い傾向は多くの国で共通しています。

 が、「ある日突然、気づけば大人になっている」というのが男の子というものでもある、というのが多くの例や論文を見ての私の所感です。「男/女」というのはそもそもきっぱりと線の引けないものですが、一般論として女の子はゆっくりと大人になり、男の子というのはある瞬間突然大人になるものなのではないか、と。

 

 そして男の子が「ある日突然大人になる」その瞬間というのは、唐突に訪れる「取り返しのつかない事態」に直面したときなのではないか、とも。

 

「取り返しのつかない事態」というのは、たとえば敗北です。部活などで高い目標を掲げ、青春の多くの時間を捧げてきたそれが、ある1つのエラーやミスによって突然失われる。その瞬間、「時間というのは巻き戻せないものなのだ」ということを痛切なかたちで彼らは知ることになります。

 私は野球やサッカーなどの学生スポーツを見るのが好きなのですが、甲子園などの全国大会よりも地方大会の方がドラマチックな試合が多いな…と密かに思っており、それはテレビ放映される華やかな全国大会への切符をかけた一戦一戦の中に、とんでもない熱量が凝縮されているためではないかと思います。

 震えるような勝利があるのと同じように、戦慄するような敗北というのがあります。そしてそういう試合を経たあと、少年たちの顔が試合前とまったく別人のように変わっているのを見るたびに、「ああ、この子は大人になったのだ」と思います。

 ある一部の少年たちにとって、大人になるというのは途方もない痛みを経験することなのだ、と。

 

 WPSにおいて、爆発物処理班にスカウトされた松田くんは「お願いされてやるよ」とためらいもなく進路を決めたとき、まだ子ども=少年だったのだと思います。年齢的には22、3歳であっても、彼はその時点でおそらくまだ決定的に大人にはなっていなかったのではないでしょうか。

 同じように父親のつらい姿を目の当たりにしても、「倒産しない警察という職業を選んだ」という現実的な考え方をした萩原くんの一方で、松田くんは「警視総監を殴りたい」という直情的かつ非現実的(でも松田くんなら実現しそう笑)な思考を持っています。

 結果的に2人は爆処になり、そして萩原くんの死は間もなく訪れます。

 

 爆発の瞬間、そして通話が途切れた瞬間。

 それが「松田陣平が最も痛切なかたちで大人になった瞬間」だったのではないかと私は思います。

 そのとき彼の胸に去来したであろうもう戻らない時間…少年時代からのさまざまな思い出、警察学校での出来事、そして何より萩原くんが爆処に入ることを躊躇ったときの言葉。それらひとつひとつが松田くんの胸を刺し、そのあまりのどうしようもなさ、取り返しのつかなさ、残酷さが、否応なく松田くんを大人にしたのではないか、と。

 

 そして大人になった松田くんは、たったひとつのことを達成するために生きていくことになります。それが萩原くんを死に追いやった犯人を捕まえることです。

 それは、少年であった自分の落とし前をつける、ということでもあり、それを達成することは彼が大人として前に進むためにどうしても必要だったのだと思います。松田くんは美和子さんに「あんたのこと結構好きだったぜ」というメールを送っていましたが、異性への恋心というその年頃の青年たちの身体的・精神的に最大の興味を全うするよりも、自らが自らに誓った約束を守ろうとすることで発達を完了させることを優先したのが彼です。

 それは結果的に「壮絶な死」という形を取りましたが、松田陣平という人の人生にとって、その死は決して後ろ向きなものではなかったのだと思います。

 

 

 痛切なかたちで大人になる。

 私はここに、松田くんと降谷零の共通点がふっと浮かび上がるように思います。

 WPSでは、降谷さんはまだあどけない表情をたくさん見せています。友人や女の子たちと笑いあい、お酒やカラオケを楽しむ、優秀で真面目な「普通の」青年。初恋の人を探すために警察官になることを決意した、一途でまっすぐな青年。

 それが7年を経て公安ゼロの切り札となった今、命のかかった場面で「僕の恋人はこの国さ」ときっぱりと言い切る人に変貌した。

 この7年の間に起こった多くのことは、降谷さんの人生観を変えるに余りあることだったと思います。エレーナさんの死の認識、友人たちの死、そして何より親友の自殺。

 それらを経験するたびに襲ったであろう痛切がおそらく降谷零を、淡い恋心を引きずった少年から、現実を背負って戦う大人にしたのだと思います。

 

 大人になるということ。

 それは諦めを知ることでもあり、世界の影を知ることでもあります。

『ゼロの執行人』において、境子先生は「人にはね、表と裏があるの」という印象的な台詞を残しています。あまりに一本気であった羽場さんがそれゆえに検察公安のために働き、最終的に死を偽装して影の人間とならざるを得なかった経緯。それを画策したのが他ならぬ降谷零であったこと。

 その事実を思うとき、降谷さんの中で7年間の間に起こったことに慄然とします。この人はどれほど多くの悲しみと影を飲み込み、大人にならざるを得なかった人なのか。そして松田くんが萩原くんの死に決着をつけることで乗り越えようとしたのと同じ性質のものが降谷さんの中にもあり、それに片を付けるために彼が今、内面にどれほどの暗闇を抱えてトリプルフェイスを演じているのか。

 そして何より、かつて同じように少年であった自分を支えた恋や愛の眩しさを今も体いっぱいに抱いて戦うコナンくんを、『ゼロの執行人』において降谷さんはどんな思いで見つめ、利用したのか。

 

 日本におけるユング心理学の草分けとして知られる河合隼雄先生は、影に関する著書の中で詩人・谷川俊太郎さんの言葉を引用しておられます。

「どんなに白い白も、本当の白であったためしはない。一点の陰りもない白の中に、目に見えぬ微小な黒が隠れていて、それは常に白の構造そのものである」

 警察学校時代、真っ白に見えた降谷さんや松田さんの中にも、おそらく確かに「目に見えぬ微小な黒」が隠れていた。そしてそれは、それぞれの親友の死をきっかけに最も痛切なかたちで顕現し、彼らを大人にしたのではないか。そんな気がします。

 

 青春の影を知り、大人になった少年たち。

 今となっては、かつて確かに少年であった自分を知る者は誰もいない降谷さんにとって、彼を決定的に大人にしたのであろう親友の死をいかに乗り越えるのかということそれ自体が、まさに降谷零が降谷零であるために必要なことなのだろうと思います。

 たとえ組織壊滅後にトリプルフェイスの仮面を捨て去ろうとも、降谷さんはもう影を知らなかった頃には決して戻れません。それを誰よりも自分自身がわかっているのであろう降谷さんは、きっとその先も孤独を背負い直し、前を向いて生きていくのだと思います。

 

 ただそのとき、降谷さんが望むのであれば、今生きている人たちと新たな絆を結ぶことはできるのかもしれない。それは決して警察学校の友人たちを忘れるということではない。

 喪の作業を降谷さんが乗り越え、新たな道を進む日が来ることを願ってやみません。