Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理・所感】世界への扉が開かれる〜降谷さんとエレーナさん

※本記事では10/16本誌掲載の『名探偵コナン警察学校編』について深く言及しています。未読の方はご注意ください。

 

 降谷さんが警察官を目指した理由が明らかになりました…。いつか来るのだろうと思っていたことがあまりにもさらりと突然来てしまい、「やはり」と「しんどい」が渦を巻いております。

 

 今回のワイルドポリスストーリーを読んで何より感じたことは、降谷さんの人生のテーマは「愛」なのだなあということです。

 より正確に言えば、ラブコメ推理漫画である「名探偵コナン」という作品の根底に流れるテーマの1つは「愛」なのだと思うのですが、その作品世界において得体の知れない男(ときには非情な男)として描かれてきたトリプルフェイス・降谷零を支えるものもまた「愛」である、ということがはっきりと示されたのが、ゼロティーでありWPSなのだなあ、と。

 愛の力は偉大だね…。

 

 降谷さんは、エレーナさんにどうしてももういちど会いたくて、彼女の行方を探すために警察官になった。学生時代にもできる範囲で探したのかもしれませんが、それではどうしてもぶつかってしまう壁があり、「警察官になるしかない」と決めたのではないかと推察します。

 降谷さんのその人生を賭けたと言ってもいいような行動の根底にあるのが、エレーナさんというひとりの女性に対する愛と感謝でなくて何だろうかと思いますし、降谷さんが他人であるエレーナさんをそこまで慕うことができたのには、やはり理由があるのだろうとも思います。

 

 今回は、そのことについて考察します。

 

 私は当ブログにおいて、降谷さんには母親がいないか、または母親との関係が希薄な環境であるという仮定のもとに考察をしています(詳しくは過去記事をご参照ください)。

 その根拠の1つが、ゼロくんのエレーナさんに対する不器用という言葉では言い表せないような甘え方です。

 

 私がゼロくんを見ていて最も切なくなるところは、「この子は、理由がなくては人に甘えてはいけないと思っているんじゃないかな」というところです。

 心理学には「知性化」という言葉があります。これは自分にとってつらいことや不条理なことを、半ば無理やりな理屈を作ることによって納得させようとする防衛の一種です。ゼロくんは、「甘えたい」「抱きしめられたい」「優しくされたい」という子どもとして当たり前の感情を、知性化によって抑え込んできたのではないかと思えてしまうのです。

 知性化という防衛は知能が高い人、特に言語能力が発達している人に起こりやすい防衛です。おそらく降谷さんは頭の良いお子さんだったと思うので、甘えられないとき、何か理屈をつけて無理に自分を納得させ、その感情を抑え込んできたのではないでしょうか。

 それが習い性になっているために、エレーナさんに甘えるときも「何か理由がなくては」と思ってしまうのではないかと思うのです。それがたとえ「わざと怪我をする」という、自分を傷つける行為だったとしても。

 

 ところで、なぜ「甘えたい」は子どもにとって当たり前の感情なのでしょうか。

 それは、まだ発達の途上にある子どもは、「世界が安心できる場所である」という確証を十分に持つことができていないからです。

 

 降谷さんと母親の関係については以前の記事で、クラインという心理学者の説を引いて考察しました。

 乳児期の母親(または母親的役割の人)との関係がその後の人生に大きく影響するというのは、精神分析の世界での定説のようなものです。もちろん発達の世界において精神分析はあくまで1つのアプローチなので、他のアプローチ法を取る人からは「母親との関わりはその後の発達にあまり関係がない」という研究も出されています

 が、私はやっぱりここに重要なものがないと、多くの人が苦しむ「愛着障害」の説明がつかないと思っているので、ここには人間形成においてすごく重要なものがあるという見地から考察を進めたいと思います。

 

 生まれたてのあかちゃんは、混沌とした世界にわけもわからず放り込まれた初心者です。

「自分がいる世界はいったいどういうところなのか」がよくわかっていない、つまり世界への不安を持っています。その上、おなかがすいたりおしめが濡れたり暑かったり寒かったり、「なんか不快」ということが次々に起こります。あかちゃんは結構大変です。

 そこへ登場するのが「お母さん(母親的役割の人)」です。お母さんはあかちゃんの不安を次々と取り除き、心を満たしてくれます。何を言っているのか全然わからないけれど、とにかく抱っこして温めてくれたり、ふわふわした良い感じの表情で自分を見てくれたりするわけです。これはもうあかちゃんにとって、ものすごく「安心する」ことです。

 

 お母さんは、あかちゃんに対して「情動調整」を行なっています。

「情動調整」とは、相手の気持ちを推察し、その気持ちに合わせて反応する行動です。あかちゃんがどんな気持ちでいるかを汲み取り、ときに「大丈夫だよ」と笑顔を作って安心させ、ときに「怖かったねえ」と自分も泣き顔を作りながらぎゅっと抱きしめたりします。

 あかちゃんの笑顔にお母さんも笑って応える、という場面をよく見ます。きっとお母さんは無意識に何気なくやっているのだと思うのですが、あれはあかちゃんにとってめちゃくちゃ大切なのです。

 

 だから、人混みの中であかちゃんが泣いたとき、周囲は「チッ」とかしてはいかんのですよ…。それによってお母さんが不安な気持ちになり、それをキャッチしたあかちゃんが「なんか自分が泣いたことで様子がおかしくなっているぞ」と思ってしまいます。これが何度も積み重なると、あかちゃんが安心して成長できなくなってしまう…。

 あかちゃんは大人が思っているよりも遥かにいろんなことを受け止めている、というのが心理学の捉え方です。

 

 閑話休題

 

 母親によってもたらされる子どもへの安心感は、つまり「世界を信じる気持ち」です。

 喜びの笑顔を向けたとき、それを受け止めて同じような気持ちになってくれる。あるいは悲しくて泣いているときやどうしようもなく怖いとき、側にいて手を握ってくれたり抱きしめてくれたり、温かい言葉をかけてくれる。

 それによって子どもは、「世界は信頼に足るところなんだ」という気持ちを内在化し、安心して成長を続けることができます。

 一方、虐待を受けている子どもは世界を信頼することが難しくなります。自分が泣いても殴られたり無視されたりして余計に悲しい気持ちになる。「世界への安心感」を持つことができず、自分の存在にも他者の存在にも懐疑的になります。世界は自分を苦しめるだけの存在として捉えられます。

 

※では、あかちゃんのときにこの対応を取られなかった人はその後も世界を信じることができないままなのかというと、これは人それぞれとしか言いようがありません。ただ少なくとも「ある程度成長してからでも、それを埋めることは可能なはず」という信念のもとで多くの人が支援に動いていることは確かですし、被虐経験の方が愛する人を見つけ、自分で「幸福だ」と言える生活をしている例は決して少なくありません。ただ、そうでない例もあまりにも多いのですが…。

 

 ここで大切なのは、人生の初期において安心感を与えるのは言葉の内容ではなく、表情や感触、匂いや声のトーン、雰囲気などの非言語的なものだということです。

 たとえば絆創膏ひとつを貼るにしても、情動調整しながら大人が貼ってくれることと、冷たく見向きもされないこと。どちらが「世界を信じる」ことができる人になるか。どちらが「世界は信頼に足る」と安心できるか。

 

 エレーナさんがゼロくんの心を満たしたのは、言葉よりもむしろ非言語的な行動や雰囲気だったのではないかと思います。「自分が痛い思いをしたとき、情動調整して自分を受け止めてくれる」。降谷さんにとって初めての、そしてあまりにも心地よい体験。自分を見て微笑んでくれる、自分のために怒ってくれる。

 そんなエレーナさんから少年ゼロくんが体いっぱいで受け止めたものは、「世界は信じていい場所なんだ」という体験そのものだったのではないかと思います。

 

 甘えることを許してくれた、母性を感じる女性に恋をしたゼロくん。愛をまだ存分に吸い込み、体に染み込ませていたかったときにその関係を突然断ち切られながらも、たぶんエレーナさんからもらったものによって降谷さんの世界への扉は大きく開かれたのだと思います。

 だからこそ、自分に「明るい世界」を信じさせてくれた人にどうしてももういちど会いたい。その一途な思いだけで自分の人生まで賭けることに躊躇いはなかったのではないでしょうか。それは人からどんなふうに見えても、降谷さんにとって全然オーバーなことではなかったのだと思います。

 警察学校時代の降谷さんは、エレーナさんにもういちど会えるはずということをただ信じてそこにいるように見えます。その笑顔には曇りはなく、ただただまっすぐです。きっと人から見て「くだらねえ」と思われる理由だということも降谷さんはわかっていて、でもそのくだらないものは、自分にとって何よりも大切な宝物。

 そのまっすぐで澄み切った感情は幼少期の孤独が前提です。だからこそ切ないのですが、そんな傍観者の切なさなど簡単に振り切るほどに、降谷さんにあるのは「孤独から自分を救ってくれた愛」を信じきる気持ちです。

 

 その能力の高さからたまたま公安に配属され、その任務先で運命のようにエレーナさんが飲み込まれた黒の組織に出会ってしまったのか。それともエレーナさんと黒の組織の関係を知って自ら任務を志願したのか。それはまだわかりません。

 でもエレーナさんの死を知った降谷さんの衝撃と、その死を導いた黒の組織に対する怒りは今も常に新たであることは確かだと思います。

 

 エレーナさんも幼馴染みである景光さんも警察学校の仲間も、みんな今は亡き存在です。

 それでも、今の降谷さんを支えているのは紛れもなく彼らから受け取った愛なのだと思います。ときにどうしようもない孤独に苛まれる夜があったとしても、朝が来ればトリプルフェイスの仮面をかぶって任務を遂行する降谷さんの信念を支えるもの。

「世界は信じるに足る場所だということを教えてくれた」という気持ちが降谷さんを支えているのであれば、降谷さんもまた、この国に生まれる子どもたちやこの国に生きる人たちが、「ここは安心していい場所なんだ」と思えるよう、自分にできることをしよう。そういう願いにも似た決意を持って仕事をしているような気がします。

 その気持ちがあるからこそ、組織という悪を憎む降谷さんの気持ちは普通の警察官以上に苛烈であるのだと思いますし、トリプルフェイスという孤独にも耐えられるのではないでしょうか。

 

 そして、誰よりも愛というものに苦しんだのであろう(そのような描写が際立って多い)降谷さんの根底に流れているものが愛なのであれば、公安警察としてどんな違法作業をし、バーボンとして組織の仕事をしようとも、その生き方として降谷さんははっきりとコナンくんの味方なのだと。

 

 いま何よりも教えてあげたいのは、「あなたが守れなかったと思ってるエレーナ先生の娘・志保ちゃんは生きてますよーーー!!!」ということですね…。それを知ったときの降谷さんがいったいどんな顔をするのか、どんな気持ちになるのか…。

 それは降谷さんにとって、確実にひとつの救いになるのではないかという希望と期待を持って原作を待っています。