Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【所感】ダークヒーローとしての降谷零

※今回の記事は心理学的考察ではなく、ただの「ゼロの執行人」からの所感です。

 

「コナン」が東映小学館のドル箱であることは、私のようなライトなファンにあっても、「ゼロの執行人」前からの認識でした。ただ、「ゼロの執行人」の興行収入がこれほど急に突き抜けることは、おそらく関係者にとって予想外であったのではないかなあと思います。

 

 本作の興行収入爆上げの大きな原動力の1つとなったのが降谷さんの存在であることは、多くの人が認めるところだと思います。それにしても、なぜこの方がこれほどの魅力を備えたキャラクターとなり得たのか。それを知るためには、「零を聴き終わるまでがゼロの執行人」とまでファンに言わしめた、福山雅治氏作の主題歌の秀逸な歌詞がキーになるように思います。

 

「真実はいつも一つ でも 正義はそう涙の数だけ」

 

 正直なことを言えば、この歌詞を聞いたとき、私はちょっと「何ですって?」という反感を持ちました。「真実はいつも一つ」は、コナンの絶対的テーゼです。その言葉に「でも」という反語を突きつけた。それはある意味、コナンの否定であるというふうにも受け止められたからです。

 私は降谷さんに最も興味を持ってはおりますが、基本的には「名探偵コナン」登場人物を箱推ししています。誰が欠けてもあの世界は成立しないと思うからです。(当たり前か)

 そしてその中でも、「コナンくん」は物語最大のヒーローであり、特別な存在だと思っています。

 

 この作品は、「工藤新一少年の事件簿」でないからこそ、これほど息の長い作品になったと思うのです。

 超人・工藤くんのかっこよさだけで、作品がこれほどのコンテンツになったとは思えません。やはり息の長い作品には、ある種の「悲劇性」が必要です。

 

 私は、「名探偵コナン」を、やや異形の「貴種流離譚」と捉えています。不本意な身分(7歳の少年)に落とされた主人公が、人々との出会いによって、本来の姿では成し得なかった成長を遂げる「工藤新一の成長譚」であるという側面があると思うのです。名作エピソード「月光殺人事件」は、まさにそれが色濃く出た物語でした。

 たとえば「ゼロの執行人」において、少年探偵団のみんなが、自分たちの行動が本当に意味していたことを最後まで知らないし気付きもしないのは、まだそれにふさわしい成長年齢まで達していないからです。それはまだ彼らにとって「知らなくていい世界」なのです。

 が、コナンくんは17歳であるがゆえに、そして頭の切れる子であるがゆえに、本質に接近し、真実を見極めます。そして、大人になっていくための糧とすることができます。

 

 今までの映画でも、コナンくんはさまざまな事件と遭遇し、真実にたどり着くたびに、人々の切実な願いや、純粋な愛に触れてきました。コナンくんは逃げません。博士や服部くんや哀ちゃん、時にはおっちゃんや捜査一課の刑事さんたちの力を借りながら、考え抜き、勇敢に戦い、成長を遂げてきました。

 コナンくんにとって、世界は「救うに足るもの」です。真実を見極めることで、コナンくんは「悲しみが表面を覆っていようとも、世界はこんなに美しい」ことを私たちに見せてくれてきたのだと思います。

 

 そこへ映画22作目にして登場したのが、降谷零という男です。

 この人が、コナンくんにアンチテーゼを突きつけました。「真実は一つであろうとも、きみの正義が誰もにとっての正義ではない」と。それはつまり、「真実を暴こうとも、それは、きみの正義が誰のものより正しいという証明にはならない」と言っているも同然です。もしもそうでないとしたら、いったい真実は何のために暴かれるのか?犯罪を暴くことは、終わりではなく「互いの正義を白日の下でぶつけ合う場が設定された」という、始まりに過ぎないのではないか?

 

 降谷さんはそれを説明しません。それは降谷さんにとって自明のことであり、コナンくんにそれを説く役割が自分に振られているとも考えていないからです。だからコナンくんにはわかりません。混乱し、疑心暗鬼になります。いったいこの人は何なんだ?という圧倒的な異物感が、降谷さんに対するコナンくんの思いの中にはあります。

 

 もしも降谷さんの正体が公安ではなく、「黒の組織」の一員でしかなかったとしたら、この対立構図はこれほど複雑にはなり得ませんでした。いかなる理由があっても犯罪は許されない。コナンくんの強い気持ちが世界を救う、いつもの映画になったと思います。

 ところが降谷さんは、コナンくんの味方である「警察組織の人」です。味方側にいるのに味方ではない。目的は同じでも志が違う。これがコナンくんを揺らします。「どうしてこんなことするんだ!」と叫び、「今回の安室さんは敵かもしれない」と考えます。

 端的に言えば、降谷零はコナンくんにとって、「汚い大人」だったのだと思います。犯罪者ではないのに、汚い。これがコナンくんの異物感の正体なのだと思います。

 そこが、降谷零がコナン世界において異様な人である所以です。「味方なのに汚い」は、今までのコナン世界にはいない人物です。(「敵なのにきれい」はあります。)

 

 これまでコナンの対照となってきたのは、常に犯罪者でした。殺人やテロなどを身勝手な動機で行うゆえに、彼らは決してコナンのアンチテーゼとなる対等な力を持ちませんでした。(成実先生や明美さんは例外です。)

 ところが降谷さんには、アンチテーゼたりえる基盤があります。彼は警察組織の一員であるだけでなく、コナンくんにとって最大の敵である黒の組織を殲滅させるべく、活動しています。降谷さんが手を汚すのは「国を守るため」であり、そこにかつてコナンくんと対峙してきた犯罪者たちのような身勝手な私情は含まれません。

 つまり降谷さんは、「ダークヒーロー」です。今までコナン世界において、最も「ダークヒーロー」に近づいたのは、ハードボイルドな捜査官・赤井さんだと思うのですが、赤井さんはコナンくんの味方であることが明言されており、あまり影の部分がありません。

 一方で、降谷さんには、あまりにも「見えない・見せない部分」が多すぎるのです。その上で、彼はヒーローであるコナンくんと目的を同じくし、命を賭けて仕事をしています。

 

 ところで、「ダークヒーロー」とは何でしょうか。

 コナンの世界における、ヒーローに対するアンチヒーローの代表格とされてきたのは、怪盗キッドだと思います。シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの図式を踏襲したこの関係性は非常にわかりやすいです。また、コナン(工藤新一)とキッド(黒羽快斗)は同年齢であり、ここにスポーツ漫画におけるライバル関係のようなものを見出すこともできます。キッドはピカレスクロマンですが、あくまでそこには爽やかさがあります。「アンチヒーロー」が必ずしも「ダークヒーロー」になるわけではないのだと思います。

 

 ところが、降谷さんはダークヒーローとなる資質を持っています。キッドが非常に個人的な・かつ純粋な理由で戦う、少年っぽさを残したアンチヒーローであるのに対して、降谷さんは警察組織を背後に持ち、ゼロに所属するがゆえ違法作業によって強引に公的な権力を行使することもできます。

 降谷さんがどのような動機で警察官になり、ゼロとして活動しているのかは原作では明らかになっていないため、確かなことは言えません。が、「ゼロの執行人」において、推理力と行動力・仲間との絆・何より蘭ちゃんへの愛という個の力で戦おうとするコナンくんとは対照的に、降谷さんは公的な権力を使って犯人を、そしてコナンくんを追い詰めます。

 コナンくんと降谷さんは、最初から「シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパン」にはなりえないのであり、レストレイド警部と言うには降谷さんはあまりにも頭が切れ、狡猾です。かと言って、降谷さんはモリアーティでもありません。コナンくんにとって、降谷さんは「倒すべき相手」ではないからです。

 

 この扱いにくさこそが、「ダークヒーロー」の条件なのだと思います。

 最終的にコナンくんと降谷さんは共闘しますが、最後のシーンでコナンくんが降谷さんを問い詰める様子に甘さはありません。コナンくんにとって、降谷さんは最後まで「敵かもしれない」のです。2人が互いに背中を向けて去る描写でこの映画が終わるのは、降谷さんがコナンくんにとって、現時点では決して赤井さんたちと同格にはならないことを暗喩しているようにも思われます。

 黒の組織云々ではなく、これは生き方の問題でもあるのだと思います。降谷さんの生き方とコナンくんの生き方は交わらない。

 

 だからこそ、降谷さんはコナンくんの絶対的テーゼに「でも」を突きつけることを許される存在であり得ました。それはつまり、降谷さんはコナン世界において、圧倒的に異端であり、孤独であるということを表しています。

 

 降谷さんの役割は、コナンくんが背負えない部分を背負っていくことだと思うのです。

 人間一人が背負える量というのは、ある程度限界があります。コナンくんは光を背負えば背負うほど、影を背負えないのです。その影の部分を背負うのが、降谷さんという人なのだと思います。

 だからこそ、コナンくんは降谷さんを断罪できないのではないでしょうか。「ゼロの執行人」におけるコナンくんの最後の微笑みは、「この人は俺には背負えないものを背負って戦い、その上で、俺にしか背負えないものを任せてくれたんだ」という微笑みなのかもしれないと思います。

 

 これからも、降谷さんはコナン世界で、コナンくんとは別の方向を向いて生きていくのだと思います。コナンくんという眩しいほどのヒーローに対するアンチヒーローではなく、コナンくんが決して背負えない影を引き受ける、誇り高きダークヒーローとして。