Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

自由への選択〜「灰原哀」という少女

名探偵コナン」に灰原哀という少女が登場しなかったら、この物語はこれほどの深みを帯びなかったのではないか。そう思うことがあります。

それは哀ちゃんがその名の通り「哀しみ」を背負って作品に登場し、それを乗り越えて生きようとする姿を私たち読者がリアルタイムで見てきたからなのだと思います。

初登場回からを振り返ってみると、哀ちゃんの戦いは黒の組織との戦いであると同時に、自分自身との戦いなのだと改めて思うところがあります。今回は、哀ちゃんの心の変遷について考察してみます。

 

説明するまでもなく、哀ちゃんの正体は宮野志保という18歳の女性です。黒の組織の科学者・シェリーであり、アポトキシン4869の開発者。

ただ、志保ちゃんはその立場を主体的に選択したわけではありません。普通の幸せな家族であった宮野一家が図らずも黒の組織と関わりを持ってしまった結果、哀ちゃんの天才性は悪用されることになってしまった。

ご両親の死ののちも、志保ちゃんは明美さんと一緒に組織を抜けられる日が来ることを信じて研究を続けました。でもそんな道の結末にあった、明美さんの死。

それを知った志保ちゃんもまた絶望の中、アポトキシンを服用して自殺を図ります。幼児化したことで手錠をすり抜けて生き延びましたが、それは結果論であり、本当は死にたかった。

 

コナンにおける哀ちゃんの物語は、姉と自分の「死」から始まっています。

 

原作と映画を通してみると、哀ちゃんは今まで何度となく自ら死を選択しようとしています。

バスジャック事件のとき、爆弾が仕掛けられたバスの中で。

映画『天国へのカウントダウン』で、爆発するビルに残って。

二元ミステリーで、ベルモットの前に自ら姿を晒して。

哀ちゃんは自分の存在価値を決して認めようとはしません。自分さえ死ねば、自分が犠牲になれば。哀ちゃんは、いつもどこかでそう思っています。

でもそんな哀ちゃんに、あるときコナンくんはこう言いました。

「自分の運命から逃げんじゃねえぞ」

哀ちゃんが自ら死を選ぶこと。それは自分の人生からの逃避なのだ、とコナンくんは哀ちゃんの目をまっすぐに見て言ったのです。

 

「逃避」…心理学ではよく登場する言葉です。

逃避は心を守るために備わったメカニズムです。これがなくては人は生きていけません。人は真実から逃げ、目を逸らすからこそ生きていけるところがあります。

でも同時に、逃避がひとつの不幸を生むこともある。それもまた事実です。

 

これについて社会的に考察した、フロムという心理学者がいます。フロイトの創始した精神分析学を社会的な現象に適用した方です。この方はユダヤ人であったため、第二次世界大戦時にナチスの手から逃れてヨーロッパからアメリカに渡っています。

フロムは著書の中で、以下のような考察を述べています。

 

ヨーロッパでは中世以降、それまでの村的な社会的絆が薄れ、個人主義的な社会が確立していった。それは個人に自由をもたらすとともに、一人で世界に直面しなくてはならないという厳しさももたらした。

そんな社会の中で自分の存在価値を見つけられず、孤立感におびえるようになった人々。彼らはネガティブな感情から逃避するために、社会的権力を無批判に信じるようになっていった。強いもの=ナチス服従することで仲間を獲得し、その代償として自分の頭で考え、能動的に選択する自由を手放した…

 

「おびえた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。(中略)そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする」

 

精神的な自立ができていない人たちにとって、「自由」というのは重荷です。自由とは常に自分に対して判断や選択を迫るものだからです。その重荷から逃れようと、強い権力を持つ人物に判断を委ねた人たち。孤独であることの恐怖から逃れるために、自分の頭で考えること、自分の心で感じることをやめてしまった人たち。

「自由」から逃走することで、民衆が自分自身の不安感から逃れようとした。その結果がヒトラーの台頭である。

そうフロムは考えていました。

 

この分析を、志保ちゃんに置き換えて考えてみます。 

志保ちゃんにとって、組織から逃走する唯一の方法は「死」でした。そしてそれは同時に、自分の人生から逃れる方法でもあった。

志保ちゃんは死を選択することで、「私は私である」という自由を守ろうとしていたのかもしれません。誰よりも自分自身を嫌悪しながら、「自分の頭で考え選択する自由、自分が自分であろうとする自由」だけはどうしても捨てることができなかった。

組織に隷属して生きる選択肢はない。それは生きながら死ぬことと同じ。だからこそ、死ぬことしか自由を獲得する方法が見つからなかった。

 

志保ちゃんは強い女の子だったからこそ「自由の獲得=死」という答えを出してしまったのではないか。そう思います。

 

自分の感性を信じ、自分の頭で考えることを決してやめない哀ちゃんの中にある「死」。その根底にあるのは「私には生きてる資格なんてない」という、自分の存在そのものへの否定です。哀ちゃんは死を選ぼうとする際、いつも自己否定の気持ちを持っていることがその台詞からは窺われます。

「バカだよね、私」

「私の居場所なんかどこにもないってわかってたのに…」

私なんか死んだって誰も悲しまない。私は罪を犯した人間。せめて大切な人たちを守って死ぬことで、自分の命が少しでも役に立つのなら。

哀ちゃんの死への願望には、常にそんな切ない思いが込められています。

 

でも前述した心理学者・フロムは、こんなことも言っています。

 

「私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。(中略)他人しか『愛する』ことができないものは、まったく愛することはできないのである」

 

哀ちゃんはひとを愛したがっているのに、まず誰よりも自分を愛することができない。

「自分を愛することが下手な子」。哀ちゃんを、そんなふうにも感じます。

 

でもそんな哀ちゃんは、作品が進むにつれて少しずつ自分を愛する心を取り戻していくのです。それは、自分の存在をまっすぐに受け止めてくれる人たちとの出会いによって。

名探偵コナン』という作品の柄の大きさは、哀ちゃんが死によって自分自身から逃走しようとするたびに、いつも誰かによって助けられていることです。そこには確かに、まっすぐな愛と優しさと強さがあるのです。

誰とも知れぬ女の子を保護し、その家に受け入れた博士。その体を抱えて爆発するバスから飛び出したコナンくん。自らの危険も顧みず車から飛び出した元太くんと光彦くん。そして、自分を銃弾に雨に晒しても哀ちゃんを胸の中から決して離さなかった蘭ちゃん。

「逃げんじゃねえぞ、自分の運命から」

「母ちゃんが言ってたんだ、米粒ひとつでも残したらバチが当たるってな!」

「ダメ!動いちゃ!……もう少しの辛抱だから…お願い!」

哀ちゃんはそのたびにすごく驚いた顔をするのです。「なぜ?」と心の中で彼らに問いかけるのです。

「どうして私なんかを助けるの?私なんかのために危険を犯すの?私なんかどうだっていい存在なのに」

でもそんな疑問なんて、彼らはいつも吹き飛ばしてしまうのです。言葉ではなく行動で、そのぬくもりで、いつも彼らは哀ちゃんの頑なな心に言うのです。

 

「人が人を助ける理由に明確な思考は存在しねえだろ!」

 

痛いほど響くその心の声によって、哀ちゃんは確かに自分を愛する力を少しずつ取り戻していっているような気がするのです。まだ信じ切ることはできなくても、自分の持つ科学者としての能力でコナンくんと協力することで、自分自身の存在を少しずつ認めていくことができている気がするのです。

 

そして、哀ちゃんが自分自身を肯定し、受け入れていくプロセスは、ある2人の女の子との関わりによって最も如実に表現されているように思います。それが蘭ちゃんと歩美ちゃんです。

哀ちゃんは当初、彼女たちとはっきりと距離を置いていました。蘭ちゃんを海の人気者・イルカ、自分をサメに例えていたように、2人は哀ちゃんのコンプレックスを刺激しすぎる存在だったのだと思います。

まるで自分とは正反対の2人。その眩しすぎる光に照らされると、自分の「影」の色がいかに濃いかを否が応にも目の当たりにしてしまう。それが哀ちゃんには苦しかったのだろうと思います。

 

でもさまざまな経験を経て、2人への哀ちゃんの気持ちや態度は少しずつ変わっていきます。

 

海辺の事件での蘭ちゃんの言葉に、それまで避けていた蘭ちゃんと握手をすることを自分に許した哀ちゃん。そして二元ミステリーで哀ちゃんをしっかりと胸に抱き、命懸けで守った蘭ちゃん。

そのぬくもりに亡き姉・明美さんを重ねながら、哀ちゃんは確かに「私は生きていていいって、この人は言ってくれてるんだ」と理屈ではなく思えた気がするのです。

この人は信じていい人。安心していい人。そして何より、決して泣かせてはいけない人。

あのとき哀ちゃんの中で、蘭ちゃんはコナンくんの存在を超えたのかもしれません。自分の恋心を超えて、「江戸川コナンを工藤新一に戻し、この子のところに帰す」その決意が生まれた瞬間。

それは、姉の命を助けられなかった自分自身を救う方法でもあるのではないかと思うのです。失恋の痛みを凌駕する誇り。自分自身を「よくやったじゃない」とはじめて認め、抱きしめてあげられること。そんな気持ちになれる気がしているのではないかと思うのです。

 

そしてもう一人の女の子、歩美ちゃん。ある事件で歩美ちゃんの発した言葉が、哀ちゃんの人生を大きく変えました。

「でも私、逃げたくない!逃げてばっかじゃ勝てないもん!」

この言葉によって哀ちゃんは証人保護プログラムを受けず、自分は自分として生きる決意をします。

 

哀ちゃんが歩美ちゃんのこの言葉に胸打たれたのは、そこに「強さ」を見たからなのだと思います。

おそらく幼い頃から同年代の子と交わることなどなかったのであろう志保ちゃんが、哀ちゃんになることによって初めて知った「友だち」という存在のぬくもり。損得なんて考えず、ただ「あなたのことが好き」と態度で、表情で示してくれる存在。その子の持つ、ただただまっすぐな強さ。

哀ちゃんは証人保護プログラムを受けないという選択をしたそのとき、ジョディ先生にこう言うのです。

「逃げたくないから…」

灰原哀として生き、宮野志保として自分自身の手で組織との決着をつけること。それは正に哀ちゃんにとっては命を、人生を賭けた選択だったと思います。でもおそらく初めての「本当の自分として生きるための主体的な選択」だったのだとも思います。

そしてそれが「友だち」によってもたらされたこと。それは哀ちゃんにとって、何よりも大きなことだったのではないでしょうか。

 

この世界は生きる価値のある世界で、その世界には私の居場所だってあるのかもしれない。私は私を愛してあげられるのかもしれない。

それを哀ちゃんは少しだけ信じたくなったのかもしれません。ジョディさんにその言葉を伝えたあと、病院の廊下を笑顔で走り出した哀ちゃんの笑顔に、それははっきりと表れていました。

 

だからこそ哀ちゃんがたった一度、自ら解毒剤を飲んで志保ちゃんの体に戻ったこと。それは大きな意味を持っていました。少年探偵団たちが閉じ込められた山小屋が火事になり、大人の力でないと脱出できなかったとき、哀ちゃんは志保ちゃんに戻る選択をした。

そのときの映像によってバーボンが志保ちゃんを発見し、ミステリートレインでシェリー抹殺計画が実行されたことを思うと、それはすべきではない選択だったし、以前の冷静で判断力のある哀ちゃんならしなかったのかもしれません。でも、あのときの哀ちゃんは解毒剤を飲んだ。

 

「人が人を助ける理由に、明確な思考は存在しない」

 

あの新一くんの言葉が、そのときの哀ちゃんにははっきりと体現されていました。自己犠牲なんかではない、哀ちゃんなりのただ必死の、無償の愛がそこにはありました。

 

ここまでの哀ちゃんの変遷を心理学的に説明するのなら、自己肯定感や自己効力感の回復、アイデンティティの確立…などという言葉になるのだと思います。でもいまは、哀ちゃんが出した答えを、そんな言葉に押し込めたくはありません。

「私は私でいることを選ぶ」

自らの心の自由のためにいくつもの選択をし、強く優しくなってきた哀ちゃんがそこにはいます。「強さ」とは優しさに裏打ちされてはじめて「本当の強さ」になるのだと知った哀ちゃんは、誰よりも頼もしいコナンくんの相棒となり、作品中で生き生きと活躍しているように見えるのです。

 

「哀」よりも「愛」の方がかわいい。

そう言った博士に対して「哀」という字を選択した志保ちゃん。

でもきっと博士も周りのみんなも、その名前を呼ぶときにはいつも、きっとごく自然に愛を載せているんだと思います。そして哀ちゃんもいつの日かその名前の中に、はっきりと「愛」を見る日が来るのだと思います。

哀ちゃんはこれからも、いくつもの選択をすると思います。でも、灰原哀になってからしてきた選択は決して間違っていなかった。宮野志保の姿に戻ることになっても、このまま灰原哀として生きることになっても、あのとき逃げなかったことが、きっとこれからも自分自身を支えていく。

それは灰原哀=宮野志保の「自由への選択」だった。

いつか哀ちゃんが、そんなふうに思える日が来たらと思います。

 

『黒鉄の魚影』には、哀ちゃんのこんな台詞があります。

「私は変われた。だから、信じて!」

その言葉に込められた強さの中に、今まで哀ちゃんに関わったすべての人たちの思いがあり、愛がある。

これからも灰原哀を、そして宮野志保を、ずっと応援していきたいと思います。 

降谷零の孤独とは〜痛みと夢からの考察

 2022年の映画に先駆けて、いよいよアニメ警察学校編の放映が始まりました。

 22歳の降谷零(紛れもない降谷零!)が動いて喋って笑っているのを見られるだけで幸せなのですが、やはり29歳の降谷零を知ってから見るに、色々と思うところも出てくる次第です。

 

 原作や脚本の先生方はインタビューにおいて、現在の降谷さんを「孤独」という言葉で表現されています。たとえば青山先生は「安室は孤独なのがいいんじゃないの」と言い、脚本家の櫻井先生は「帰る場所のない孤独」「すがるものがある孤独」「一人で孤独を抱えられる強さ」と言います。

 ただそれはあくまで29歳の降谷さんのことで、警察学校編22歳の降谷さんに「孤独」という形容は当てはまりにくいような気がします。外見のことで嫌がらせを受けている描写はあるものの、景光くんという親友もいますし、松田くん・萩原くん・班長とも出会い、同期たちとの飲み会にも行っています。

 また、自分を嫌っている松田くんに自ら近づいていったり、少年時代に遡ればヒロくんに「しゃべった方が楽しいぞ?」と話しかけるなど、降谷さんはそもそも人とコミュニケーションを取ることが嫌いではないのだと思います。

 

 そう考えると、22歳から29歳の7年間は、降谷さんが孤独になっていく過程だったとも言えるような気がします。今回は降谷さんの孤独について「痛み」と「夢」という2つの観点から心理学的に考察してみました。

 

 

(1)「痛み」について

 降谷さんの孤独と痛みの関係について書く前に、まずは「痛み」というものについて整理します。

 「痛み」と聞いたときに多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、体が傷ついたときに感じる「身体的痛み」ではないでしょうか。が、今回取り上げるのはいわゆる心の痛みです。心の痛みは心理学では「社会的痛み」と呼ばれることがあるのですが、これについてはウィリアムズさんという方が行った「サイバーボール課題」という有名な実験がわかりやすいので紹介します。

 ABCの3名にオンラインでキャッチボールをしてもらいます。3人は最初は平等にボールを投げ合って楽しく遊んでいるのですすが、AとBは途中でCを外します。Cの脳が「あれ?ボールが来ないぞ?」と気づいたときどんな反応を示すのかをfMRIという装置を使って測定するというものです(ちなみにAとBはAIです)

 測定の結果、仲間はずれに気づいたときCの脳では、前部帯状回背側部という部位が活性化していることがわかりました。ここは、身体的な痛みを与えられたときにも活性化する部位です。つまり人の脳は「ひとりだ」と感じたとき、ぶつけたり叩かれたりといった身体的な痛みを感じるときと同じ場所が反応するのです。

 

 痛みというのはとても主観的なもので、体温や脈拍のように普遍的な数値として測れるものではありません。その人が痛いと思えば痛いし、痛くないと思えば痛くないのです。

 たとえば『ゼロの執行人』で降谷さんがコナン君を抱えてビルに突っ込む際に負った腕の傷は、どう考えても相当の痛みを伴う傷だと思います。でも降谷さんはコナンくんの前でまったくその素振りを見せませんでした。

 おそらくあれは我慢したのではなく、降谷さんは本当に痛くなかったのではないか…と私は思っています。理由は以下の2つです。

1、興奮のあまりアドレナリンが過剰に分泌されて痛みを感じなかった。

2、降谷さん自身がその痛みを「痛み」として強く認識しなかった。

 執行において降谷さんは小五郎さんを犯人に仕立て上げて蘭ちゃんを泣かせ、コナンくんに嘘をつき、鏡子先生や羽場さんを利用しています。もちろんすべては仕事としてしたことですが、降谷さんは自分の行為が多くの人を傷つけたことをこの上なく自覚していたと思います。だからこそ自分もまた傷を負ったことを当然のこととして受け止め、「痛み」を感じる資格は自分にはないと考えていたように思います。

 相対的に見れば、きっとあの傷は「痛い」です。でもあれは降谷さんにとって受けるべき傷であり、流すべき血だった。それを思うとき、痛みは痛みとしては認識されていなかった、少なくとも傷に見合うほどの痛みを感じていなかったのではないかという気がするのです。

 

 では降谷さんが痛みを「痛み」として認識するのはどんなときなのでしょうか。

 ここでふと浮かび上がるのが、警察学校の4人の同期の死です。降谷さんは彼らを失うたびに、手足をもがれるような痛みを感じたのではないか、と。

 

 もちろん降谷さんは、彼ら一人一人が信念を持って職務に当たっていたことを誰よりも知っています。でも、一人また一人と亡くなっていくたびに、その死は強烈な痛みとして感じられていたとも思います。

 その痛みが「どれくらい」だったのかを知る術はありません。痛みが主観的なものである以上、客観的な数値化は不可能だからです。ただ、降谷さんは彼らの死に、任務で身体に負う傷の痛み以上の痛みを感じている。そんな気がします。

 

 では人の死による痛みに、慣れは生じるのでしょうか。降谷さんが大切な人を失っていくたびに「死」というものに慣れ、痛みが軽減されていくということはあったのでしょうか。

 たしかに心理学には「脱感作」という概念があります。人はネガティブな刺激に繰り返し曝されることによって不安や恐怖を感じなくなっていく、という考え方です。たとえば残酷なゲームを毎日している子どもが残酷さに対して鈍感になっていくのは、この脱感作の作用だと考えられています。

 

 でも降谷さんはいくつもの死を経験しても、やっぱりそれに慣れることはなかったのではないかと思います。ポアロでの安室透としての働き方を見るに、降谷さんは人を大切にする人です。人は誰かの代わりになることはできない。それを身にしみて知ったのは同期たちの死を通してだったと思うからです。

 ただ、彼らの死の痛みをもろに受け止めていたら、きっと降谷さんは生きてこられなかったのではないでしょうか。虐待や多くの死を経験した人たちは、その悲しみや痛みを感じないよう自分を「閉じる」ことがあります。悲しみが大きすぎて、心が壊れてしまうのを防ぐためです。

 大切な人たちの死の痛みはいかに降谷さんといえども、たった一人で引き受け続けられるほど軽いものではない。「閉じる」とまではいかなくても、今はとにかく振り返らずに走り続け、親友の最後の仕事となった黒の組織殲滅という任務を全うする。それまでは個人的な心の痛みは封印する。そんなふうに覚悟を決めているようにも見えます。

 

 さらに降谷さんは、少年時代に痛みを和らげてくれる存在であったエレーナ先生を失っています。以降、降谷さんが大切な人を失っていく過程は、痛みを和らげる人を失っていく過程でもあります。降谷さんは一人一人が亡くなるたびに、人生の中で避けては通れない痛みを一人で抱えていくことにもなったのだと思います。

 

 伊達さんのメールを削除した降谷さんの「静かに瞑れ」という言葉は、自分自身の思い出に対して言った言葉なのかもしれません。ひとを信頼し、信頼され、思い切り生きてきた青年時代の自分を眠らせ、降谷さんは孤独という道を否応なく歩き出した。

 それは「帰る場所がない孤独」を降谷さんが生きることを決意した瞬間だったかもしれないとも思います。

 

「ゼロの執行人」エンディングに降谷さんは「安室透」として完璧な笑顔で登場します。孤独の影など1ミリも見せずに。

 それが降谷零の孤独に対する精一杯の矜持であるならば、この人はどれだけの痛みを飲み込んできたのか。大切な人たちの死の痛みすらもエネルギーに変えて生きている降谷さんはしかし、その強さを得るまでには正に生き地獄のような心の痛みを経験したのではないか。そんなふうに思います。

 

 

(2)「夢」について

「ゼロの日常」1巻には、降谷さんが寝る前に同期たちの写真を眺めた結果、浅い眠りの中で「早く来いよ」と4人が自分を呼んでいる夢をみる…というエピソードがあります。

「もう彼らは自分の隣にはいない」……降谷さんがそのことを痛切に感じていることがわかる回でした。

 少し長くなりますが、この夢という観点からも降谷さんの孤独を考察してみます。

 

 夢というのはものすごく個人的かつ複雑なものなので、「何をみたからこうである」という、いわゆる夢診断に分析心理学的な根拠はあまりありません。たとえば同じように猫の夢を見たとしても、その人が普段から猫をどう捉えているか、いまどんな精神状態にあるのか、猫がどのような文化を背負う地域で生まれたのかなどによって、それが表すものは多種多様に変化するからです。

 そのため、降谷さんが4人に「早く来いよ」と言われている夢の意味を簡単に分析することはできません。

 

 ユングの高弟に、マイヤーという夢研究の第一人者がおられます。

 人の睡眠はレム睡眠とノンレム睡眠で90分のサイクルを取りますが、レム睡眠時に夢が生じることはよく知られています。レム睡眠の「レム」とは「rapid eye movements(急速眼球運動)」の頭文字ですが、その名前どおり、レム睡眠時には眼球が動き、脳もよくはたらいています。夢はこのような状態のときにみるのです。

 マイヤーは一晩のうちに何度か繰り返されるレム睡眠でみる夢の内容がどんどん深くなっていくことに着目し、「夜が深まるうちに自分本来の心的な問題と欲求に心が向いていく」と述べています。そのためか、眠りが浅いときにみる夢は気にかかっている(多かれ少なかれ意識している)ことが発現することが多いです。たとえば心配ごとがそのまま夢に出るというパターンは多くの人が経験しているのではないでしょうか。明日の予防接種がいやだなあ…と思っている人が歯医者さんにいく夢を見る、などはその一例です。

 

 前節で考察した通り、降谷さんはあまりにも多くの痛みをいまは一時的に保留しているように見えます。もしもその死を完全に消化しきれているなら、少なくともああいう状態で彼らの夢はみないのです。意識に上ってきてしまうから、受け止めきれていないから、夢にみるのだと思います。

 

 夢から覚めた降谷さんは「自業自得だ」と自嘲気味に呟きます。

 その強さと立場ゆえに誰とも心の深い部分を共有できない。降谷さんは現時点において、「孤独を約束されている人」です。自分も痛むことがあるのだという弱さを知った分だけ、おそらく強くも優しくもなった降谷零が、その力を大切なものを守ることに使っているという皮肉。強くなればなるほど一人になっていく。一人になればなるほど、誰かを守れるようになる。その相反性を抱えて生きているのが降谷さんなのではないでしょうか。

 

 選択の余地なく孤独になり、それを背負ってなお闘い続けられる強さがあるからこそ、降谷零は降谷零であり続けている。その孤独は選び取ったものではないけれど、受け止めなくてはならないという腹はきまっているのだと思うのです。

 

 ただ、降谷さんの「隙間」が見えたその夢の描写は、降谷さんのパーソナリティを支える柱が何なのかを改めて考えさせるものでした。

 

 花びらが次々と散っていく中、最後の一弁としてそこにあり続けること。その緊張感をふと緩める夜に彼らの夢をみて、「早く来いよ」と呼ばれたいと思ってしまう降谷さんに、人間としての降谷零を見ます。戻らない時を思ってしまう降谷さん。

 公開されているあるカウンセリングの事例に、クライエントの言葉としてこんな一文が紹介されていました。

「死にたいという言葉でしか生きたいということを表現できなかった」

 死を口にすることで生きたいという意思を伝えることがある。死を知ることで強く意識する生がある。そんな人としての根源的な矛盾や葛藤を強く思わせる言葉のように思います。

 彼らの死を思うことで繰り返し「生きねば」という気持ちを確認する降谷さんは、心に咲いた桜をずっと守り続ける桜守として、その桜を胸に戦う気持ちを常に新たにしているのだと思います。

 

 降谷零という複雑な構造を持つ男の根幹にあるのが、仲間達と過ごした眩しい時間であり、少年時代に受け取った愛であること。その根底のどうしようもない純粋性と輝きゆえに、降谷さんにはどんなに孤独であろうと悲壮感はないし、同情なんて許さない凛とした背中で立っている。

 それを思うとき、ただ一ファンとして、その闘う姿のまま自分の納得する命の燃やし方で生ききってほしいという願いだけがありますし、降谷零はきっとそのように生きるのだと思います。

 

 2022年の映画は高木くんと佐藤さんがメインですが、同時に降谷さんが公安警察官として五弁の桜を胸に戦う姿を見られるのを本当に楽しみにしています。

赤井秀一が「敵に回したくない」と言った男〜降谷零のトラウマと情動脳

「君は、敵に回したくない男の1人なんでね」

 来葉峠で鮮やかに復活した赤井秀一が、降谷零に言った言葉です。

 赤井さんは降谷さんが自分を殺そうとしていることを知っています。にも関わらずそのことを責めることもなく、むしろ最上級の賛辞と言っていいようなこの言葉を降谷さんに告げているのです。

 これは一体どういうことなのか。「トラウマ」をキーワードに心理学的に降谷さん分析をしながら考察してみたいと思います。

 今回は、精神分析ではなく脳科学の視点から見た心理学の話です。

 

 

 トラウマ……日本語では「心的外傷」。

 人生の中で、虐待やレイプ、戦争や生死に関わる事件事故に巻き込まれ、人々が心に負う深い傷のことです。PTSDの原因となることでもよく知られています。

 降谷さんはPTSDを発症してはいないと思いますが、景光さんという親友の衝撃的な自殺現場を目撃したことは深い心の傷、トラウマになっていると考えられます。

 前段として、トラウマを負ったとき人の脳がどう働くのかを簡単にまとめます。例によって降谷さんに行き着くまでが長い(すごく簡略化はしているのですが…)のですがご了承ください。

 

 まずは、トラウマを負ったときの記憶と普通の記憶の違いについてです。

 トラウマ体験を思い出しているときの脳とニュートラルな状態の脳のスキャン画像を比較すると、その違いは一目瞭然です。

 前者のときに活性化するのは、大脳辺縁系と呼ばれる脳の中でも内側にある部分です。特に扁桃体という部分が活性化することが知られているのですが、ここは「煙探知機」とたとえる精神科医がいるほど、脅威に対して敏感に反応する部分です。ここが反応すると即座にアドレナリンなどのストレスホルモンが分泌され、その結果として心拍数や呼吸が増加したり、血圧が上がったりという身体反応が現れます。

 

 大脳辺縁系は別名「情動脳」と呼ばれています。たとえば「虫を見たら飛び上がる」というような反射的な筋肉の反応を思い出していただけるとわかりやすいと思うのですが、とにかく情動脳は反応が速いです。

 

 さらに「情動脳」と対比するものとして「理性脳」があります。これは脳のいちばん外側の部分、大脳新皮質のことです。動物の中でも人間に特に発達しているこの部分は、さまざまな情報を統合して選択、判断を下す役割を果たしています。

 この「理性脳」は何か身に危険なことが起こったとき分析というプロセスを経る分、情動脳よりも反応が遅いです。さっきの虫の例えで言えば、「この虫はおもちゃだ」とか判断するのが理性脳です。

 

「情動脳」と「理性脳」。どちらも人間の生存にとって欠かすことのできない部分ですが、トラウマを負った人たちはこの情動脳がとても敏感になっていることがわかった、というのがスキャン画像による研究です。

 

 ところで、敏感である、というのは必ずしも悪いことではありません。情動脳が鈍感だと危険に対して対処ができないからです。

 要は程度の話で、あまりにも敏感だった場合、今自分の置かれている状況が安全か危険かの正確な判断が難しくなってしまうというのが問題なのです。些細なことにも「はっ」と敏感になり、身構えてしまう生活を想像してみてください。たぶんものすごく疲れると思います。

「人はちょっと鈍感な方が生きやすい」と言われることがある所以です。

 トラウマを抱えた方々はこの情動脳がちょっとしたことで活性化し、さらに理性脳である前頭葉の活動が不活性化します。その結果、何でもないようなことがトリガーとなって感情を爆発させたり、逆に凍りついて動けなくなったりしてしまうのです。

 

 トラウマを負った人たちの脳に特徴的なことはもう1つあります。

 それはトラウマ体験を思い出したとき、脳がその出来事を「過去」のものではなく、正に「今」起こっているかのように認識し、反応してしまうことです。

 今いる場所がどんなに安全で「ここは戦場や虐待やレイプの現場ではない」と理性脳でわかっていても、情動脳には関係ありません。トラウマ体験を思い出せばいつでも「あのとき、あの場所」に戻ってしまうのです。その結果、いま現実に起こっているわけではない脅威に対処するため、アドレナリンなどのストレスホルモンを大量に分泌するよう指示を出してしまいます。実際にはもう戦う相手などいないにも関わらず、体は臨戦態勢に入ってしまう。戦うか逃げるか麻痺するかを選択する「闘争逃走反応」という状態に入り、理性脳の制御が効かない。

 いわば情動脳が暴走するこの状態に、トラウマを負った方々は苦しめられるのです。

 

 記憶というのはすごく主観的で変わりやすいものなので、たとえ恐怖経験をしても、時間の経過とともに傷が癒されればその記憶は当時とはかなり変化したりします。嫌な思いや怖い思いというのはすべての人が経験しますが、時間が経てばそれも思い出しやすい程度に柔らかいものになる、という経験は多くの人が持っていると思います。

 でも心的外傷を負うほどの恐怖を体験した人は、どれほど時間が経っても当時の記憶が生々しいまま変わりません。ずっとその恐怖の中にとどまり続けているのです。

 これはつまり「時間によって癒されない傷は存在する」という重い現実を表しています。

 

 前置きが長くなりましたが、ここから降谷さんの話になります。

 

 降谷さんは基本的に、ものすごく優秀な方です。バリバリの脳をお持ちです。

 また、それに比例してレジリエンス(ストレスに耐える力、乗り越える力)がすごく高いので、どんな極限状態にも冷静に対処できます。普通の人なら情動が揺さぶられるような場面でも認知がぶれず、目的に向けて情報を再統合し、迅速にプランニングできる理性脳の持ち主です。さらにトリプルフェイスを操っていることからわかるように、情動をかなり統制できます。たぶんこれが本来の降谷零の姿だということは、警察学校編の若き降谷さんの数々の活躍を見てもわかります。降谷さんは相当に「理性脳」の人です。

 

 が、あの屋上での記憶に関してのみ、降谷さんの情動脳は暴走します。前頭葉からのコントロールが効かなくなり、情動脳が優位に働きます。

 これはものすごく自然なことだと思います。あの屋上のシーンは普通の人なら前頭葉の機能が停止して情動脳が走り出してもおかしくないほど強烈なものだからです。むしろ今の降谷さんにあの場面の記憶がしっかりと残っており、スコッチの指の血痕まで確認できていたことの方が驚きです。あれほどのトラウマ場面に遭遇すれば、人は記憶を断片的にしか覚えていなかったり、目の前の現実を認識できなくなることの方が普通だからです。

 

 ただ、だからと言って降谷さんはまったく冷静だったわけではない。それは、赤井さんへの執着といっていいほどの強い感情からわかります。あの記憶は降谷さんをずっと苛み続け、それに対処するために「赤井秀一を殺す」という激烈な感情を抱いた。

 おそらく降谷さんは今もまだ、ヒロくんの遺体を見た瞬間のあの激烈な恐怖の中にずっととどまり続けているのだと思います。傷は傷のまま癒えることがなく、そのまま。

 

 私は以前、精神分析的な視点から「降谷さんが殺したいほど憎んでいる男、というのはおそらく自分のことである」という文章を書きました。

 赤井さんに投影をし、それを攻撃することで(そして赤井さんは決して死なないので安心して攻撃できる側面がある)自らの精神のバランスを保っているのではないか、と。

 

 では脳科学の視点から降谷さんのトラウマを分析し、「なぜ降谷さんは赤井さんを殺したいほど憎んでいるのか」を考えるとどうなるのか。

 赤井さんに執着するのは、あの光景を思い出すたびに降谷さんがあの時あの場所に身体的にタイムスリップしてしまうからなのではないでしょうか。

 前段で書いたように、トラウマを思い出すときというのは普通の出来事を思い出すときとは脳の活性パターンが明らかに違います。その出来事を、今まさにあのときと同じように「経験」している状態になるのです。

 それは、空気の冷たさや血液の温かさといった身体的な感覚、絶望感や怒りといった情動、匂いや音までが、すべてあのときとまったく同じように体験されるということでもあります。身体が実際に震え、筋肉は緊張し、呼吸や心拍数が増大します。

 このとき、脳の中では2つの重要な機能が停止しています。

 1つは時間の感覚と目の前の状況を認識し「あれは今起こっていることではない、今は安全な場所にいる」ということを理解する機能。もう1つはトラウマ体験のときの感覚や光景をひとつの出来事として統合し、理解する機能です。

 降谷さんはトラウマを負いながらもあの屋上での出来事をかなり正確に記憶しているとは思いますが、それでも統合しきれない混乱した記憶の中で、あの場にいた赤井秀一という男だけががっちりとフォーカスされ、ロックオンされているのではないでしょうか。

 

「今ここであの男を殺せばヒロは死なない」

 降谷さんは景光さんの死が自殺だということに気づいていますが、それを誘導したのは赤井さんだと思っています。赤井さんを止めさえすればヒロは助かる。それには赤井を殺すしかない。

 蘇る記憶を何度も体験しながら、降谷さんはその悲しい願いを叶えようとしているかのようにも見えます。

 その無意味さに、おそらく降谷さんの理性脳は気づいているはずです。でも、情動脳はそうではない。強烈な悲しみを経験してしまった情動脳の暴走は、そう簡単に止まるものではありません。

 

 これは降谷さんの強さの否定ではありません。トラウマというのはそれほどまでに重いものだということです。

 フロイト先生はトラウマを受けて抑圧された記憶を意識に浮かび上がらせることが回復だと言いましたが、現代の研究結果は必ずしもその説を支持しません。「トラウマを負った自分といま普通に暮らすことができている自分。2つに分裂しなくては生きていけない」そう言うサバイバーは大勢います。

 トラウマを抱えた人々と数多く接してきた精神科医や心理士は言います。

 

「あれほど痛めつけられた心の断片が安らかに眠れるような墓を見つけられる人はいない」

 

「彼ら(幼児期に虐待された男性たち)はジムに通い、筋肉増強剤を飲み、雄牛のように強靭な心と体を持っていたにも関わらず、心の奥底では自分は無力だと感じている怯え傷ついた少年だった」

 

 けれど、赤井さんはそんな降谷さんに言うのです。

「君は、敵に回したくない男の1人なんでね」

 

 それが全く慰めなどではないことは、この言葉が発された前後の状況からわかります。このとき赤井さんは降谷さんがバーボンでも安室透でもない「公安警察官・降谷零」であることを看過しています。おそらく、スコッチと降谷さんの関係も知っているでしょう。

赤井秀一は生きている」という降谷さんの予測は当たっていたのであり、コナンくんと工藤家の人々の協力がなければ赤井さんは決定的に追い詰められていた。自分を思い出せば情動脳が暴走するような状態の男、しかもそれに足る理由を持つだけの男が、その情動を強い意思の力で押さえに押さえ、自分のもとに乗り込んできた。

 

 深いトラウマを抱えながら自分をここまで追い詰めた男の能力に、赤井さんはおそらく驚嘆し、降谷さんを一人の力ある人間として認めているのだと思うのです。「敵に回したくない男」という最上級の賛辞を以って。

 

 降谷さんが公安警察官であるということを赤井さんが知ったとき、赤井さんは何より降谷さんの能力に驚嘆したのではないかと思うのです。あれほどの衝撃を受けても前頭葉の機能を停止させることなく自分の前で取り乱すこともなかった男。明晰であるがゆえに解離することもできず、つらい記憶をしっかりと抱き続ける。それは強いからこそ抱かざるを得ない苦しみです。

 そしておそらく赤井さんも、家族との別離や明美さんの死などによって、その「強いゆえの苦しみ」を体験した1人なのではないでしょうか。

 

 あのとき、降谷さんの前頭葉はずっと動いていた。情動脳に完全に支配されることはなく、暴走して自分が公安警察官、スコッチの親友だということを露呈することもなかった。

 あの傷すらも抱えてトリプルフェイスを演じ続けるほど強靭な精神力を持った降谷さんに、心理的な揺さぶりなど簡単には効かない。極限状態にあっても脳の機能が停止しない。

 赤井さんは誰よりもその優秀さを身を以って知っているからこそ、降谷さんを敵に回したくないのではないか。

 そしてそれほどまでに優秀な降谷さんを以ってしても負った傷はあまりにも深く、今もまだその傷は血を流し続けている。自分への殺意が止んでいない限り、その傷はまだ生のままなのだと赤井さんは理解しているのではないか。

 

 そこまでわかっていても赤井さんが対降谷さんの場面で決して手を抜かず、「狩るべき相手を見誤らないでいただきたい」というきついことをあえて言うのは、降谷さんを癒せるのは降谷さん自身しかいないとわかっているからなのではないかと思います。

 人生哲学を語ってそれに陶酔・依存させ、信者を作るような方法をカウンセリングとは言いません。自分の手で人生を取り戻したという自信と誇りこそが人を生きようとさせるのであり、カウンセラーの手を離れることがカウンセリングの成功です。カウンセラーの哲学を借りてそれに寄りかかる、それなしでは生きていけない状態にさせるようなカウンセリングは、カウンセラーの自己満足でしかありません。一種のメサイア願望を持っている病んだカウンセラーはたくさんいると思います。

 

 降谷さんはトリプルフェイスを駆使して任務を完璧に遂行しながら、その傷をひとりで抱え続けており、それは亡き親友の兄に再会してすら言葉を交わすことも許されないほど厳しいものです。

 赤井さんはそんな中で唯一、その死の真相も降谷さんの3つの顔すべてを知る者としてもそこにあり、そして降谷零という一人の人格をまっすぐに見つめ、その力を同情など抜きで正当に評価している。

 これは降谷さんの誇りと自信を支え、「無力な自分」から回復する力になると思います。

 

 降谷さんは、目の前で親友を失った消えることのない傷を抱えて生きていく。

 赤井さんへの殺意が消えるとき。それが降谷さんが自分を取り戻したサインなのだと思います。本来の降谷零は、決して人の命を奪おうとするような人ではないからです。

 

「敵に回したくない男」。

 その言葉が赤井さんの降谷さんの能力とレジリエンスの高さへの紛うことなき正当な賛辞であるなら、赤井さんは降谷さんがそのトラウマを乗り越える力があることを、誰よりも信じているのだと思うのです。

【心理・所感】サバイバー〜「諸伏景光」という男

 諸伏景光という人は、何と苛烈な人生を送った人だったのか…

 少女だった真澄ちゃんに話しかける回想シーンなどから、優しく穏やかな「微笑みの人」というイメージがあったのですが、その下に途方もなく大きなものを抱えていたのだなあ、とWPS諸伏編を読み終えた今は思います。

 諸伏兄弟の静けさや穏やかさの下にある苛烈な炎は、高明さんの場合は「自らの進退をかえりみず勘助くんを探しに行った」という普段の冷静沈着さに見合わぬ行動からうかがい知ることができるのですが、景光さんはその素顔がWPSでほぼ初めて明かされただけに、衝撃は大きいものがありました。

 

 景光さんはその亡くなり方と状況ゆえに、どうしても悲劇性を背負ってしまうところがあります。特に降谷零というキャラクターにとって。

 降谷零と赤井秀一の間にある大きな因縁。それは、景光さんが降谷さんの親友であり、同じ公安警察官でもある唯一無二の存在だからこそ作られたものです。

 この因縁が巡り巡って赤井秀一の劇的な来葉峠の復活があったことを思えば、諸伏景光が本編で果たしている役割の大きさたるや…。

 投影、憎しみ、復讐心。あの降谷零が赤井秀一に対してのみさまざまな負の感情でがんじがらめになり、その本領を発揮できない。そして赤井秀一が登場しなかったからこそ、その枷を外れた執行人の降谷零があれだけ破天荒に輝いていたことを思ってしまうのです。

 その根底にいるのが、諸伏景光という男。

 

 景光さんの過去が明らかになった今、WPS諸伏編を読み終えた私の所感は、「ああ、この人は生き切った人なのだなあ」ということです。

 それは松田くんに対しても思ったことなのですが…

 彼らに共通しているのは、その死が一見「志半ば」に見えることです。松田くんは萩原くん死亡の原因となった犯人を自らの手で捕まえることはできず、景光さんもまた黒の組織壊滅の瞬間に立ち会うことはできませんでした。

 が、彼らは確かに「生き切った」という感じがします。

 諸伏編が終わった今、薄暗い影がどうしてもついて回っていた諸伏景光という人のイメージが、私の中でかなり明るいものに変化しています。

 

 景光さんについてそう思うのはなぜか。

 それは、彼が「サバイバー」だったことがとても大きいように思います。

 

 「サバイバー」…文字通り「生き残った人」。

 心理臨床現場でこの言葉が使われる場合、それは虐待や災害、事件事故などで心的外傷…いわゆるトラウマを負い、それを抱えながら生き続けている人を指します。

 景光さんは事件の被害者遺族であるとともに、現場に居合わせて心に深い傷を負った被害者本人でもある。そしてその傷をずっと抱えて生きてきた、紛れもないサバイバーです。

 

 心因性失声症や事件の記憶の解離、また悪夢やフラッシュバックなどの症状から、景光さんはPTSDと診断されていたと推測できます。

 トラウマが長期間に渡って心身に影響し、フラッシュバックや過覚醒を引き起こすのがPTSDです。生命に関わるような大きな出来事…戦争や震災、虐待などが原因となります。日本では、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災によって広く知られるようになりました。

 ちなみに、ショッキングな出来事によって受けた心の傷がさまざまな症状を引き起こすということ自体が、アメリカでベトナム戦争帰還兵の治療が始まるまで精神医学の世界では軽視されていました。ベトナム戦争後はじめて、レイプや虐待といった、それまで光が当たることのなかった人たちへの治療や支援が始まったという経緯があります。

 

 あの一夜から始まった、景光さんのサバイバーとしての人生。

 景光さんは事件とともに生き、その人生は事件と常に不可分だった。そしてそれを乗り越えたとき、景光さんは胸を張って「自分は生き残り、今も生きている」と言えた。

 PTSDは他の精神疾患を伴うことが多く(8割以上とも言われます)うつや不安障害、アルコール・薬物依存になりやすく、死にたいという強い願望を抱く人も大勢います。景光さんも事件を何度も頭の中でリプレイし、固執し、時に過覚醒の状態になっている。「生きているということそれ自体が苦行」「人生に希望が何ひとつない」「生きている意味がない」…これはPTSDの方々の実際の声ですが、トラウマが深く身体に刻み付けられ、「心の持ちよう」などで治るわけはないのがPTSDです。

 

 景光さんの人生にも7歳のときからこの苦痛が存在し、それとともにずっと生きてきた。

 それを思うとき、兄に「友達ができたよ」と笑顔で電話をしたり、ベースを演奏したり料理をしたり、さらに「警察官になる」という意思を持つまでになるまでの道のりがどれほど苦難に満ちたものであったか。そしてそれに降谷零という親友がどれだけ大きな役割を果たしたか。

 降谷さんもそれを自覚していたはずです。

 

「警察官になる決意をした」…そこに景光さんという人の強さが表れているように思います。

 警察官になるということは、解離するほどつらい記憶だった事件に向き合うことだけを意味するのではありません。PTSDを引き起こした状況と似たような状況に何度も遭遇することも意味します。それは本来とてもつらいことであり、高明さんも弟が「警察官になる」と言い出したとき密かに心配したのではないでしょうか。

 失声症などの症状は克服しても、心身に刻まれた傷とは長い時間をかけて付き合っていかなくてはならないのがPTSDです。状況がまったく同じではなくても、ちょっとした音や匂いなどの断片に反応して大量のストレスホルモンが分泌され、しかもそれが体内で消散して基準値に戻るまでにも時間がかかります。身体への負担も大きいのです。

 それでも景光さんは、警察官を志していた兄・高明さんや親友である降谷さんに任せるのではなく、自らの手で事件を解決したいと願った。それは景光さんが「そうしなくては自分は自分の人生を取り戻すことはできない」と考えたからではないでしょうか。

 ある高名な心理学者は、PTSDを「魂の死」と表現しています。自分の人生が自分の手の中にないような感覚。自分の生への疑い。途方もない無力感。

 あの事件で失われた景光さんの魂は、降谷零と出会うことによって少しずつ回復していきました。ただ、その回復はその強さを景光さんが持っていたからこそ実現したものだと思いますし、その強さは7歳まで家族に愛によって育まれたものなのだと思います。警察学校での穏やかさはきっと、景光さんの本来持つ温和で明るいパーソナリティだと思うので…

 でも、その本来的な性格を取り戻すだけでは、景光さんは「自分の人生が完全に自分のものとして取り返された」という感覚を持つことはできなかったのだと思います。どうしても事件を解決する必要があった。

 警察学校で事件について調べる景光さんの表情は降谷さんが心配するほど鬼気迫るものでしたが、炎の中に犯人を追いかけ、救出した景光さんには「復讐心」は感じられませんでした。それこそが事件の記憶に苦しみながらも、決して「犯人憎し」だけでその事件を追いかけていたわけではないことの証左のように思います。

 

 警察官になる…それは景光さんの、自分の人生をしっかりと生きようとする意思の表れだったのだと思います。

 

 4人が下で広げる桜の旗の上に落ちていった瞬間。

 それは、景光さんはサバイバーとして確かに生き抜いてきた自分を誇りに思う瞬間だったのではないでしょうか。そしてあれが、WPS最大の見せ場だったとも思います。

 愛や友情、仲間との絆によって犯人を捕まえ、しかし「何があろうと決して死なせない」。コナンにおける絶対的テーゼはここにも適用され、そしてそれは諸伏景光という男が自分の過去に自分の手で決着をつける瞬間として描かれました。

 その瞬間を仲間たちが桜の旗で包み込んだこと。桜はWPSが始まる当初から彼らのモチーフでもあり、警察のシンボルでもあります。「警察官に必要なのは強さと優しさと絆」…今までのそれぞれのエピソードを総括し、それを象徴するような光景。

 景光さんと彼を苦しめ続けた犯人を受け止めた瞬間は、警察官として、かけがえのない仲間としての警察学校組の「5弁の桜」が完成した瞬間でもあったのかもしれません。

 

 そしてその旗を、今も降谷零は立て続けているのだと思います。他ならぬ仲間たちのために、たったひとりで。

 

 それから4年後、景光さんの人生は自決によって幕を下ろすことになります。

 ただ、景光さんの過去が描かれるまでは悲劇であったその死が、諸伏編が終わった今、「この人はこの人の苦しみをその強さによって克服し、精一杯生きたのだ」というふうに思えます。

 自死の瞬間に景光さんの頭に浮かんだのは、親友・降谷さんのことだったのではないでしょうか。

 自分の人生に光を与えてくれた少年。共に成長し、今は公安警察のエースとなった降谷さんの実力も真面目さも信念も純粋な思いもきっと景光さんは誰よりも知り、「あいつが絶対に組織を壊滅に導いてくれる」その確信を持っていたのではないかと思います。

 無念よりも何よりも、降谷さんに対するその信頼が、景光さんの抱いた最後の感情であったかもしれない。

 降谷零に出会って再開した景光さんの人生は確かに意味のあるものであり、今はその過酷な人生を強く生き抜いたことに静かに敬意を表すべきなのだろうと思います。

  

 降谷さんはいま「そっち側がよかった」という寂しい本音を抱えながらも、サバイバー・諸伏景光の生きた証を魂の一部として胸に秘め、自分もまた「生き切ろう」としているのではないかと思います。

 その死はいつ訪れるのかわからない。それは萩原くんや伊達さんを突然襲った死と同じように、いつ降谷さんにも訪れるかわかりません。

 でもその覚悟を常にしているからこそ、降谷さんは日々をあれほど精一杯生きているのかもしれないと思います。

 

 降谷零は強い男です。

 そして、親友である諸伏景光もまた、とても強い男だった。

 そんなことを思ったWPS諸伏編でした。

【所感】青春の影〜その瞬間、少年たちは大人になる

 とにかくWPSの松田くんはかわいいな!と思います。やんちゃで直情的、愛想はないし無礼だけれども友達思いで憎めない。

 その松田くんがサングラスで表情を隠し、喪服を着続けて爆弾犯を執拗に追い続ける男になることを、読者である私たちは知っています。市民を救うために観覧車で爆死することも、そしてそれがすべて萩原くんの死に端を発することも。

 

「大人になる」ということを発達心理学的に定義するのは難しいのですが、統計的にも社会感覚的にも、思春期の男の子は女の子に比べて発達が遅い傾向は多くの国で共通しています。

 が、「ある日突然、気づけば大人になっている」というのが男の子というものでもある、というのが多くの例や論文を見ての私の所感です。「男/女」というのはそもそもきっぱりと線の引けないものですが、一般論として女の子はゆっくりと大人になり、男の子というのはある瞬間突然大人になるものなのではないか、と。

 

 そして男の子が「ある日突然大人になる」その瞬間というのは、唐突に訪れる「取り返しのつかない事態」に直面したときなのではないか、とも。

 

「取り返しのつかない事態」というのは、たとえば敗北です。部活などで高い目標を掲げ、青春の多くの時間を捧げてきたそれが、ある1つのエラーやミスによって突然失われる。その瞬間、「時間というのは巻き戻せないものなのだ」ということを痛切なかたちで彼らは知ることになります。

 私は野球やサッカーなどの学生スポーツを見るのが好きなのですが、甲子園などの全国大会よりも地方大会の方がドラマチックな試合が多いな…と密かに思っており、それはテレビ放映される華やかな全国大会への切符をかけた一戦一戦の中に、とんでもない熱量が凝縮されているためではないかと思います。

 震えるような勝利があるのと同じように、戦慄するような敗北というのがあります。そしてそういう試合を経たあと、少年たちの顔が試合前とまったく別人のように変わっているのを見るたびに、「ああ、この子は大人になったのだ」と思います。

 ある一部の少年たちにとって、大人になるというのは途方もない痛みを経験することなのだ、と。

 

 WPSにおいて、爆発物処理班にスカウトされた松田くんは「お願いされてやるよ」とためらいもなく進路を決めたとき、まだ子ども=少年だったのだと思います。年齢的には22、3歳であっても、彼はその時点でおそらくまだ決定的に大人にはなっていなかったのではないでしょうか。

 同じように父親のつらい姿を目の当たりにしても、「倒産しない警察という職業を選んだ」という現実的な考え方をした萩原くんの一方で、松田くんは「警視総監を殴りたい」という直情的かつ非現実的(でも松田くんなら実現しそう笑)な思考を持っています。

 結果的に2人は爆処になり、そして萩原くんの死は間もなく訪れます。

 

 爆発の瞬間、そして通話が途切れた瞬間。

 それが「松田陣平が最も痛切なかたちで大人になった瞬間」だったのではないかと私は思います。

 そのとき彼の胸に去来したであろうもう戻らない時間…少年時代からのさまざまな思い出、警察学校での出来事、そして何より萩原くんが爆処に入ることを躊躇ったときの言葉。それらひとつひとつが松田くんの胸を刺し、そのあまりのどうしようもなさ、取り返しのつかなさ、残酷さが、否応なく松田くんを大人にしたのではないか、と。

 

 そして大人になった松田くんは、たったひとつのことを達成するために生きていくことになります。それが萩原くんを死に追いやった犯人を捕まえることです。

 それは、少年であった自分の落とし前をつける、ということでもあり、それを達成することは彼が大人として前に進むためにどうしても必要だったのだと思います。松田くんは美和子さんに「あんたのこと結構好きだったぜ」というメールを送っていましたが、異性への恋心というその年頃の青年たちの身体的・精神的に最大の興味を全うするよりも、自らが自らに誓った約束を守ろうとすることで発達を完了させることを優先したのが彼です。

 それは結果的に「壮絶な死」という形を取りましたが、松田陣平という人の人生にとって、その死は決して後ろ向きなものではなかったのだと思います。

 

 

 痛切なかたちで大人になる。

 私はここに、松田くんと降谷零の共通点がふっと浮かび上がるように思います。

 WPSでは、降谷さんはまだあどけない表情をたくさん見せています。友人や女の子たちと笑いあい、お酒やカラオケを楽しむ、優秀で真面目な「普通の」青年。初恋の人を探すために警察官になることを決意した、一途でまっすぐな青年。

 それが7年を経て公安ゼロの切り札となった今、命のかかった場面で「僕の恋人はこの国さ」ときっぱりと言い切る人に変貌した。

 この7年の間に起こった多くのことは、降谷さんの人生観を変えるに余りあることだったと思います。エレーナさんの死の認識、友人たちの死、そして何より親友の自殺。

 それらを経験するたびに襲ったであろう痛切がおそらく降谷零を、淡い恋心を引きずった少年から、現実を背負って戦う大人にしたのだと思います。

 

 大人になるということ。

 それは諦めを知ることでもあり、世界の影を知ることでもあります。

『ゼロの執行人』において、境子先生は「人にはね、表と裏があるの」という印象的な台詞を残しています。あまりに一本気であった羽場さんがそれゆえに検察公安のために働き、最終的に死を偽装して影の人間とならざるを得なかった経緯。それを画策したのが他ならぬ降谷零であったこと。

 その事実を思うとき、降谷さんの中で7年間の間に起こったことに慄然とします。この人はどれほど多くの悲しみと影を飲み込み、大人にならざるを得なかった人なのか。そして松田くんが萩原くんの死に決着をつけることで乗り越えようとしたのと同じ性質のものが降谷さんの中にもあり、それに片を付けるために彼が今、内面にどれほどの暗闇を抱えてトリプルフェイスを演じているのか。

 そして何より、かつて同じように少年であった自分を支えた恋や愛の眩しさを今も体いっぱいに抱いて戦うコナンくんを、『ゼロの執行人』において降谷さんはどんな思いで見つめ、利用したのか。

 

 日本におけるユング心理学の草分けとして知られる河合隼雄先生は、影に関する著書の中で詩人・谷川俊太郎さんの言葉を引用しておられます。

「どんなに白い白も、本当の白であったためしはない。一点の陰りもない白の中に、目に見えぬ微小な黒が隠れていて、それは常に白の構造そのものである」

 警察学校時代、真っ白に見えた降谷さんや松田さんの中にも、おそらく確かに「目に見えぬ微小な黒」が隠れていた。そしてそれは、それぞれの親友の死をきっかけに最も痛切なかたちで顕現し、彼らを大人にしたのではないか。そんな気がします。

 

 青春の影を知り、大人になった少年たち。

 今となっては、かつて確かに少年であった自分を知る者は誰もいない降谷さんにとって、彼を決定的に大人にしたのであろう親友の死をいかに乗り越えるのかということそれ自体が、まさに降谷零が降谷零であるために必要なことなのだろうと思います。

 たとえ組織壊滅後にトリプルフェイスの仮面を捨て去ろうとも、降谷さんはもう影を知らなかった頃には決して戻れません。それを誰よりも自分自身がわかっているのであろう降谷さんは、きっとその先も孤独を背負い直し、前を向いて生きていくのだと思います。

 

 ただそのとき、降谷さんが望むのであれば、今生きている人たちと新たな絆を結ぶことはできるのかもしれない。それは決して警察学校の友人たちを忘れるということではない。

 喪の作業を降谷さんが乗り越え、新たな道を進む日が来ることを願ってやみません。

1歳のご挨拶

 いつもお読みいただいている方々、ご愛顧ありがとうございます。

 初めましての方は、初めまして。

 

 今月で、当ブログは1歳になりました。

 

 数か月で消すかもしれないなあと思っていたので、のんびりだらだら更新とはいえ1年も続いたことに自分でびっくりです。

 

 このブログを始めるまでには以下のような経緯がありました。

 

2018年『ゼロの執行人』狂ったように鑑賞、降谷零沼に落ちる

いつか這い上がれると思っていたのにその気配一向に現れず

2019年 諦めの境地でブログ開設、心理的考察を開始

 

 沼に落ちてからブログを開設するまで約1年あったので、もう降谷沼に落ちて2年にもなるのですね…早いものです。(遠い目)

 

 私は一応、社会的に「専門家です」と堂々と名乗っても許されるくらいの心理学の民ではありますが、何せ心理学の世界も日々進歩しているので勉強は不可欠です。が、最近は「仕事が忙しい」「睡眠はだいじ」「ごはんたべたい」など無限の言い訳をして論文なども必要最低限しかチェックせず、心理ブログなんか公開してていいのか!?大丈夫か!?と自問している次第です。するけど。

 このブログは学術的に認められたエビデンスのある理論をもとに綴ってきたのですが、専門家だからこそ出る冷や汗というのもあり…。理論自体はしっかりしていても、私の理解がズレていたり理論と対象となるべき人や状況が結びついていなかったりする可能性もなきにしもあらずだな!?と思って怯えています。

 読み物としてご笑覧いただいていましたら何よりです(逃げ)

 

 2年経っても相変わらず降谷さんはかっこよく、コナンくんは勇敢で眩しく、赤井さんは超然としています。蘭ちゃんは無敵のヒロインで、哀ちゃんは切なく、少年探偵団は元気いっぱいだし博士はずっと博士。真夜中のお茶会の内容も判明せず、RUMが誰なのかも私の推理力ではさっぱりわからず、相変わらずコナンはミステリに満ちております。

 あの変わっていく変わらない世界が大好きだなあ!

 

 ブログとしては始めてから3か月くらいであるきっかけがあってぐわっとアクセス数が伸び、さらに本誌で警察学校編が始まった頃グーグル砲に被弾(※)して更にアクセス数が伸び、今は落ち着いてだいたい1日平均50~100アクセスくらいいただいている感じです。こんなどこの馬の骨とも知れないやつの考察を読んでいただいてるんだからせめてこまめに更新しろよな…と思わなくもないですが、ちゃんと考える材料が揃わないと考えようもないのでごめんなさい。

 

※グーグル砲被弾:google chromeのアプリ?でwebにアクセスしている方の一部に「おすすめ記事」として自分の記事が紹介されること。これによってアクセスが一時的に鬼のように伸びる。ただしあくまで一時的。特にgoogleさんから「おすすめ記事に載せたからね」というお知らせが来るわけでもないので、こちらははてブロさんからの通知を見てめっちゃ驚く。どんなアルゴリズムによっておすすめ記事が選ばれているのかはまったく謎。当ブログについては警察学校編が始まった頃、警察学校組やコナンについて多く検索している方へのおすすめ記事として「桜と命と降谷零」が載ったらしい(自分では確認できていない)

 ただ「桜と~」は降谷愛が溢れ過ぎて長い・くどい文章になったので、折角おすすめしていただいて恐縮ですがとても読みにくかったのではないかと…

 

 

これからもゆるゆると更新していけたらと思っています。よろしければ気が向いたときにでも、またふらりとお立ち寄りくださいませ。

 

どうもありがとうございました。

【心理】「喪の作業」と降谷さん

 景光さんの死と降谷さんの関わりについてはいつかきちんとまとめたいと思っていたのですが、どう考えてもひとつの記事ではまとまらないので少しずつ書いていきたいと思います。

 

 今回は精神分析において「死」を考えるにあたり基本の1つとなっている、「喪の作業」という概念から降谷さんに迫りたいと思います

 

 精神分析の世界では、人は愛する人を失ったときから「喪の仕事」あるいは「喪の作業」と呼ばれる心理的なプロセスを辿ると考えられています。

 愛する人を失ったときに感じる悲しみや痛みを乗り越え、その人がもういないという現実を受け入れていく心のプロセス。この概念を最初に出したのは例によって天才・フロイト先生です。

 フロイトは次のようなことを言っています。

 

「現実的には愛着の対象を失っているのに、心の中ではその対象への思慕という感覚が持続するため、人は心理的苦痛を感じる」

「人はこの苦痛に耐えながら、愛着の対象を元どおりに修復しようとする。その修復の過程が『喪の仕事』である」

「『喪の仕事』のプロセスを経て、人は失った対象から少しずつ離脱し、新しい対象を再び求めることができるようになる」

 

 …ざっくり言いますと、

「現実ではもう愛する人は死んでしまったのに、自分の心にあるその人への愛情は簡単には消えない」

「それが悲しくて苦しいから、何とか愛する人がまた戻ってこないかなとか頑張ってみる」

「最終的には、もう愛する人はこの世界にはいないんだということを受け入れ、また他の人を愛せるようになる」

みたいなことです。

 

 この説をさらに詳しく探求したのが、ボウルビィというイギリスの精神科医です。この方はフロイトを始祖とする精神分析の方ではありますが、フロイトが何でもリビドーで説明しようとすることに「それは違うんじゃないですかね…」と反論した学者の1人です。

 ちなみにこのボウルビィの大きな仕事の1つが、愛着理論についての実践的な研究です。彼は第二次世界大戦後のイタリアの乳児院で乳幼児を研究し、お母さんから無理に引き離されたあかちゃんは精神的な問題が現れたり病気に対する免疫力が低下したりすることを明らかにしました。これは「母性的養育の剥奪」と呼ばれ、のちにWHO(世界保健機関)が親を失った子どもへの福祉プログラムを作るときの元となっています。

 

 このボウルビィさんが愛着理論を基盤のひとつとして考えたのが「喪の作業」です。彼はフロイトの「喪の仕事」という考え方を受け継ぎ、「人は愛する人を失ったあと、時間の経過とともにこういう心理状態になる」という4つの段階を考えました。

 日本には「時間ぐすり(時間の経過が心の痛みを癒す薬である)」という言葉がありますが、それを死について理論化したもの、とも言えます。

 

1、麻痺

 無感覚の段階です。一種の急性ストレス反応で、人にもよりますが1週間ほど続くと言われています。愛する人を失ったという事実に呆然とし、その死を現実に起こったものとして受け止めることができない状態です。この段階のときに妙に落ち着いてしっかりした行動をとる(葬儀の段取りをしたり必要な連絡をしたり)人もいますが、これもまた麻痺ゆえに起こる行動の1つであると考えられています。情緒的に危機的な状態にあることは変わりません。この段階で怒りや空虚感をあらわにする人もいます。

 

2、抗議

愛する人を失った」ということが徐々に現実のものとして認識されます。一方で現実を受け止めきれず、「そんなはずはない」という喪失に対する否認がまだ残っている状態でもあります。故人に持っていた愛着が深い苦しみとなり、悲嘆が始まります。死の責任の所在について、怒りや抗議の気持ちが現れるのもこの段階です。その怒りや抗議は「なぜ自分を置いていったのか」という故人への怒りや、「自分がこうしていれば」という自責の念、罪悪感という形をとることもあります。自分への怒りを第三者に投影することで外在化し、そこに対して怒りを向ける人もいます。

 

3、絶望

愛する人がもういない」という現実を認める段階です。愛着の行き場が断たれたということが現実のものとして実感され、愛する人が存在していることを前提に成り立っていた精神生活が安定を失います。人生そのものに意味を見出せなくなり、大きな失意を感じて抑うつ状態になる人もいます。苦しみに押しつぶされて希死念慮を抱くこともあります。

 

4、離脱

 対象を「故人」として受け入れることができるようになる段階です。その思い出は痛みを伴いながらも穏やかであり、肯定的なものとなって「愛する人のいない現実」の中で生きていくことができるようになります。故人の死に社会的な意味を持たせたり、その人が生きた意味を自己の中に穏やかに馴染ませていくことができる段階です。

 

 このプロセスは必ずしもこの順番できれいに進むとは限らず、行きつ戻りつしたり、重なりあって発生したりすることも多々あります。また、ある段階に長くとどまる人もいれば、段階を1つすっ飛ばして次に進む人もいます。心理学では、このようなプロセスは多かれ少なかれ誰にもある、ということを基本的な考えとし、あとはケースバイケースとして柔らかく捉えています。

 

 降谷さんは景光さんの死について、おそらく「喪の作業」のまだ前半部分にいると考えられます。あるいは、エレーナさんや警察学校の仲間の死についてもまだ「喪の作業」は終わっていないかもしれません。あまりにも多くの人の死を経験した降谷さんにとって、この作業はとても複雑なものになっているはずです。

 

 さらに「喪の作業」についてもうひとつ、降谷さんに深く関わる概念があります。

 

 それは、「喪の作業」がスムーズに進まない場合についてです。もちろん、心のありようや愛する人との関係はひとりひとり違うものなので、スムーズに進まない人もいて当然です。ただ、その要因の大きさや多さによっては、「喪の作業」があまりにも深く痛みを伴うものになってしまうのです。

 パークスという精神科医は、「次のような場合は『喪の作業』が難儀になり、苦しみが長引いたり余計に深まったりするよ」ということを明らかにしています。

 

1、死が予期せぬ突然のものだった場合

 病気による突然死、災害や事故、予兆のない自殺などです。この場合、残された人には自責の念や不安が多く残る傾向があります。

 

2、初期の段階で悲嘆の感情をすぐに出せなかった場合(遅延)

 何らかの理由で、悲しみや怒りといった感情表出がすぐに行えなかった場合です。数か月後に表出されることもありますが、すぐに表出できた人と比べると、その方法は非常に破壊的だったり強烈だったりすることもあります。

 

3、悲嘆の感情を抑えこまなくてはならなかった場合(抑圧)

 2と同じ現象ですが、特に「表出を抑えなくては」という意識的な努力を積極的に行った場合です。仕事などに打ち込むことで悲嘆の感情を抑えつけます。これは愛する人を失った悲しみという自然な感情から強迫的に目を背けるという、一種の防衛です。

 社会生活には問題がないため、一見ショックから立ち直っているように見えるのですが、時間が経過してから突然うつを発症したり、命日が近づくと心身症の症状が出てきたり(「命日反応」といいます)、対象の死因を模倣する行動を取ることもあります。

 

4、対象に対して強い愛着や依存を持っていた場合

 愛着と依存は違います。が、「故人の存在が自分が生きる意味と深く大きく関わっていた」という場合、喪失感は当然のように大きくなります。

 

5、生前の故人と何らかの心理的葛藤があった場合

 生前、対象と諍いがあったりした場合には、対象喪失後に自責の念や罪悪感が深いと言われています。これは、生きているときの対象に向けられていた怒りが内向し、自分を責める衝動となるからと考えられています。

 

 もうここまで書いたら、あとははっきりしていると思うのですが…。

 パークスの説に、降谷さんはほとんど当てはまってしまいます。幼い頃から互いに簡単には処理できない感情と葛藤を抱えながら、共に警察官という職業を目指してきた親友。「ワイルドポリスストーリー」で垣間見える2人の様子からも、降谷さんにとって景光さんは特別な存在であることがわかります。

 そのような人を極限の状況で自殺によって突然失い、しかもその死について十分に悲しみを表現することは許されず、感情を抑圧し、先延ばししたまま社会的な役割を果たし続けなくてはならない。それが今の降谷さんです。

 

 景光さんが亡くなったことを、降谷さんは「知って」います。でも、心は別です。

「知っている」と「受け入れている」はまったく違います。心と身体を分離させ、仕事を完璧に処理しながらもどこか現実感を喪失した状態で景光さんの死を捉えている。降谷さんはそのような状態なのではないでしょうか。

 

 たとえばゼロティ1巻において、降谷さんは景光さんたちの夢を見ています。

 故人が夢に現れるとき、そこに登場する故人がどういう状態であるかということは、夢の主の心を反映します。たとえば夢の中で故人がまるで今も生きているように一緒に遊んだり話しているなら、夢の主はその死を否認している心理状態であると言えます。逆に「自分はもう死んでしまったからね」と故人が夢の主に語るような内容は、夢の主はその死を受け入れつつあるしるしと捉えられます。

 あの4人の夢と「早く来いよ」という台詞、そしてその直前にPCの写真を見る表情。ここには、もう4人が故人であるという認識と、彼らともういちど同一化したい、もういないという現実を完全には受け入れたくないという思いの間で揺れる降谷さんが表現されているように見えます。

 彼らの死を「認識はしているが受け入れてはいない」心理が現れているのではないでしょうか。

 

「認識はしているが受け入れられてはおらず、かといって悲嘆の感情を表出することは抑えこまなくてはならない」というこの状態と、生来の真面目な性格の合わせ技によって、今の降谷さんはいると考えられます。「安室透」や「バーボン」の周囲の人に、彼が愛する人を何人も亡くし、悲しみを抑圧して笑っているということなど絶対に気づかれてはならない。それは正体に近づかれる「隙」に他ならないからです。

 ただ降谷さんにはたった1人、生々しい感情を表出している対象がいます。それが赤井さんです。

 赤井さんへのやや度を逸した怒りと執着は、降谷さんの置かれた状況を考えればあってはならないことです。ただ「喪の作業」という流れの中で見たときには、赤井さんに対する降谷さんの怒りはむしろごく自然なものとして捉えられます。愛する人を失ったときには、悲しみであれ怒りであれ、何かしらの感情を表現しないことの方が不自然なのです。

 降谷さんは、今の自分の状況で許される範囲の「喪の作業」をしているのだと思います。それを受け止める対象として無意識であるにせよ赤井さんを選択し、怒りや憎しみという形で悲しみを表現している。それによって、心のバランスを保っているように見えます。

 

 いつか降谷さんは、抑圧していた悲しみを解放することから始まる、本格的な「喪の作業」をするのだと思います。それが具体的にどのような過程をたどるのかはまだわかりません。ただ、あまりにも多くの死と向き合い、受け入れなくてはならない降谷さんのその作業には、おそらく「命がかかる」と言っても過言ではないほどの苦痛が伴います。

 それをひとりで乗り越えるのはあまりにも厳しいことのように思いますし、また、これほどの苦難の中で生き抜いてきた降谷さんだからこそ、それをひとりで背負ってほしくはないという気持ちというか願いが読者としてはあります。

 

 また、私が今もっとも考えていることの1つに、「景光さんの遺体を降谷さんはどうしたのか」ということがあります。遺体と死を受け入れることとの間には深い関係があるので、それについては別記事で書きたいと思います。