Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

自由への選択〜「灰原哀」という少女

名探偵コナン」に灰原哀という少女が登場しなかったら、この物語はこれほどの深みを帯びなかったのではないか。そう思うことがあります。

それは哀ちゃんがその名の通り「哀しみ」を背負って作品に登場し、それを乗り越えて生きようとする姿を私たち読者がリアルタイムで見てきたからなのだと思います。

初登場回からを振り返ってみると、哀ちゃんの戦いは黒の組織との戦いであると同時に、自分自身との戦いなのだと改めて思うところがあります。今回は、哀ちゃんの心の変遷について考察してみます。

 

説明するまでもなく、哀ちゃんの正体は宮野志保という18歳の女性です。黒の組織の科学者・シェリーであり、アポトキシン4869の開発者。

ただ、志保ちゃんはその立場を主体的に選択したわけではありません。普通の幸せな家族であった宮野一家が図らずも黒の組織と関わりを持ってしまった結果、哀ちゃんの天才性は悪用されることになってしまった。

ご両親の死ののちも、志保ちゃんは明美さんと一緒に組織を抜けられる日が来ることを信じて研究を続けました。でもそんな道の結末にあった、明美さんの死。

それを知った志保ちゃんもまた絶望の中、アポトキシンを服用して自殺を図ります。幼児化したことで手錠をすり抜けて生き延びましたが、それは結果論であり、本当は死にたかった。

 

コナンにおける哀ちゃんの物語は、姉と自分の「死」から始まっています。

 

原作と映画を通してみると、哀ちゃんは今まで何度となく自ら死を選択しようとしています。

バスジャック事件のとき、爆弾が仕掛けられたバスの中で。

映画『天国へのカウントダウン』で、爆発するビルに残って。

二元ミステリーで、ベルモットの前に自ら姿を晒して。

哀ちゃんは自分の存在価値を決して認めようとはしません。自分さえ死ねば、自分が犠牲になれば。哀ちゃんは、いつもどこかでそう思っています。

でもそんな哀ちゃんに、あるときコナンくんはこう言いました。

「自分の運命から逃げんじゃねえぞ」

哀ちゃんが自ら死を選ぶこと。それは自分の人生からの逃避なのだ、とコナンくんは哀ちゃんの目をまっすぐに見て言ったのです。

 

「逃避」…心理学ではよく登場する言葉です。

逃避は心を守るために備わったメカニズムです。これがなくては人は生きていけません。人は真実から逃げ、目を逸らすからこそ生きていけるところがあります。

でも同時に、逃避がひとつの不幸を生むこともある。それもまた事実です。

 

これについて社会的に考察した、フロムという心理学者がいます。フロイトの創始した精神分析学を社会的な現象に適用した方です。この方はユダヤ人であったため、第二次世界大戦時にナチスの手から逃れてヨーロッパからアメリカに渡っています。

フロムは著書の中で、以下のような考察を述べています。

 

ヨーロッパでは中世以降、それまでの村的な社会的絆が薄れ、個人主義的な社会が確立していった。それは個人に自由をもたらすとともに、一人で世界に直面しなくてはならないという厳しさももたらした。

そんな社会の中で自分の存在価値を見つけられず、孤立感におびえるようになった人々。彼らはネガティブな感情から逃避するために、社会的権力を無批判に信じるようになっていった。強いもの=ナチス服従することで仲間を獲得し、その代償として自分の頭で考え、能動的に選択する自由を手放した…

 

「おびえた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。(中略)そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする」

 

精神的な自立ができていない人たちにとって、「自由」というのは重荷です。自由とは常に自分に対して判断や選択を迫るものだからです。その重荷から逃れようと、強い権力を持つ人物に判断を委ねた人たち。孤独であることの恐怖から逃れるために、自分の頭で考えること、自分の心で感じることをやめてしまった人たち。

「自由」から逃走することで、民衆が自分自身の不安感から逃れようとした。その結果がヒトラーの台頭である。

そうフロムは考えていました。

 

この分析を、志保ちゃんに置き換えて考えてみます。 

志保ちゃんにとって、組織から逃走する唯一の方法は「死」でした。そしてそれは同時に、自分の人生から逃れる方法でもあった。

志保ちゃんは死を選択することで、「私は私である」という自由を守ろうとしていたのかもしれません。誰よりも自分自身を嫌悪しながら、「自分の頭で考え選択する自由、自分が自分であろうとする自由」だけはどうしても捨てることができなかった。

組織に隷属して生きる選択肢はない。それは生きながら死ぬことと同じ。だからこそ、死ぬことしか自由を獲得する方法が見つからなかった。

 

志保ちゃんは強い女の子だったからこそ「自由の獲得=死」という答えを出してしまったのではないか。そう思います。

 

自分の感性を信じ、自分の頭で考えることを決してやめない哀ちゃんの中にある「死」。その根底にあるのは「私には生きてる資格なんてない」という、自分の存在そのものへの否定です。哀ちゃんは死を選ぼうとする際、いつも自己否定の気持ちを持っていることがその台詞からは窺われます。

「バカだよね、私」

「私の居場所なんかどこにもないってわかってたのに…」

私なんか死んだって誰も悲しまない。私は罪を犯した人間。せめて大切な人たちを守って死ぬことで、自分の命が少しでも役に立つのなら。

哀ちゃんの死への願望には、常にそんな切ない思いが込められています。

 

でも前述した心理学者・フロムは、こんなことも言っています。

 

「私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。(中略)他人しか『愛する』ことができないものは、まったく愛することはできないのである」

 

哀ちゃんはひとを愛したがっているのに、まず誰よりも自分を愛することができない。

「自分を愛することが下手な子」。哀ちゃんを、そんなふうにも感じます。

 

でもそんな哀ちゃんは、作品が進むにつれて少しずつ自分を愛する心を取り戻していくのです。それは、自分の存在をまっすぐに受け止めてくれる人たちとの出会いによって。

名探偵コナン』という作品の柄の大きさは、哀ちゃんが死によって自分自身から逃走しようとするたびに、いつも誰かによって助けられていることです。そこには確かに、まっすぐな愛と優しさと強さがあるのです。

誰とも知れぬ女の子を保護し、その家に受け入れた博士。その体を抱えて爆発するバスから飛び出したコナンくん。自らの危険も顧みず車から飛び出した元太くんと光彦くん。そして、自分を銃弾に雨に晒しても哀ちゃんを胸の中から決して離さなかった蘭ちゃん。

「逃げんじゃねえぞ、自分の運命から」

「母ちゃんが言ってたんだ、米粒ひとつでも残したらバチが当たるってな!」

「ダメ!動いちゃ!……もう少しの辛抱だから…お願い!」

哀ちゃんはそのたびにすごく驚いた顔をするのです。「なぜ?」と心の中で彼らに問いかけるのです。

「どうして私なんかを助けるの?私なんかのために危険を犯すの?私なんかどうだっていい存在なのに」

でもそんな疑問なんて、彼らはいつも吹き飛ばしてしまうのです。言葉ではなく行動で、そのぬくもりで、いつも彼らは哀ちゃんの頑なな心に言うのです。

 

「人が人を助ける理由に明確な思考は存在しねえだろ!」

 

痛いほど響くその心の声によって、哀ちゃんは確かに自分を愛する力を少しずつ取り戻していっているような気がするのです。まだ信じ切ることはできなくても、自分の持つ科学者としての能力でコナンくんと協力することで、自分自身の存在を少しずつ認めていくことができている気がするのです。

 

そして、哀ちゃんが自分自身を肯定し、受け入れていくプロセスは、ある2人の女の子との関わりによって最も如実に表現されているように思います。それが蘭ちゃんと歩美ちゃんです。

哀ちゃんは当初、彼女たちとはっきりと距離を置いていました。蘭ちゃんを海の人気者・イルカ、自分をサメに例えていたように、2人は哀ちゃんのコンプレックスを刺激しすぎる存在だったのだと思います。

まるで自分とは正反対の2人。その眩しすぎる光に照らされると、自分の「影」の色がいかに濃いかを否が応にも目の当たりにしてしまう。それが哀ちゃんには苦しかったのだろうと思います。

 

でもさまざまな経験を経て、2人への哀ちゃんの気持ちや態度は少しずつ変わっていきます。

 

海辺の事件での蘭ちゃんの言葉に、それまで避けていた蘭ちゃんと握手をすることを自分に許した哀ちゃん。そして二元ミステリーで哀ちゃんをしっかりと胸に抱き、命懸けで守った蘭ちゃん。

そのぬくもりに亡き姉・明美さんを重ねながら、哀ちゃんは確かに「私は生きていていいって、この人は言ってくれてるんだ」と理屈ではなく思えた気がするのです。

この人は信じていい人。安心していい人。そして何より、決して泣かせてはいけない人。

あのとき哀ちゃんの中で、蘭ちゃんはコナンくんの存在を超えたのかもしれません。自分の恋心を超えて、「江戸川コナンを工藤新一に戻し、この子のところに帰す」その決意が生まれた瞬間。

それは、姉の命を助けられなかった自分自身を救う方法でもあるのではないかと思うのです。失恋の痛みを凌駕する誇り。自分自身を「よくやったじゃない」とはじめて認め、抱きしめてあげられること。そんな気持ちになれる気がしているのではないかと思うのです。

 

そしてもう一人の女の子、歩美ちゃん。ある事件で歩美ちゃんの発した言葉が、哀ちゃんの人生を大きく変えました。

「でも私、逃げたくない!逃げてばっかじゃ勝てないもん!」

この言葉によって哀ちゃんは証人保護プログラムを受けず、自分は自分として生きる決意をします。

 

哀ちゃんが歩美ちゃんのこの言葉に胸打たれたのは、そこに「強さ」を見たからなのだと思います。

おそらく幼い頃から同年代の子と交わることなどなかったのであろう志保ちゃんが、哀ちゃんになることによって初めて知った「友だち」という存在のぬくもり。損得なんて考えず、ただ「あなたのことが好き」と態度で、表情で示してくれる存在。その子の持つ、ただただまっすぐな強さ。

哀ちゃんは証人保護プログラムを受けないという選択をしたそのとき、ジョディ先生にこう言うのです。

「逃げたくないから…」

灰原哀として生き、宮野志保として自分自身の手で組織との決着をつけること。それは正に哀ちゃんにとっては命を、人生を賭けた選択だったと思います。でもおそらく初めての「本当の自分として生きるための主体的な選択」だったのだとも思います。

そしてそれが「友だち」によってもたらされたこと。それは哀ちゃんにとって、何よりも大きなことだったのではないでしょうか。

 

この世界は生きる価値のある世界で、その世界には私の居場所だってあるのかもしれない。私は私を愛してあげられるのかもしれない。

それを哀ちゃんは少しだけ信じたくなったのかもしれません。ジョディさんにその言葉を伝えたあと、病院の廊下を笑顔で走り出した哀ちゃんの笑顔に、それははっきりと表れていました。

 

だからこそ哀ちゃんがたった一度、自ら解毒剤を飲んで志保ちゃんの体に戻ったこと。それは大きな意味を持っていました。少年探偵団たちが閉じ込められた山小屋が火事になり、大人の力でないと脱出できなかったとき、哀ちゃんは志保ちゃんに戻る選択をした。

そのときの映像によってバーボンが志保ちゃんを発見し、ミステリートレインでシェリー抹殺計画が実行されたことを思うと、それはすべきではない選択だったし、以前の冷静で判断力のある哀ちゃんならしなかったのかもしれません。でも、あのときの哀ちゃんは解毒剤を飲んだ。

 

「人が人を助ける理由に、明確な思考は存在しない」

 

あの新一くんの言葉が、そのときの哀ちゃんにははっきりと体現されていました。自己犠牲なんかではない、哀ちゃんなりのただ必死の、無償の愛がそこにはありました。

 

ここまでの哀ちゃんの変遷を心理学的に説明するのなら、自己肯定感や自己効力感の回復、アイデンティティの確立…などという言葉になるのだと思います。でもいまは、哀ちゃんが出した答えを、そんな言葉に押し込めたくはありません。

「私は私でいることを選ぶ」

自らの心の自由のためにいくつもの選択をし、強く優しくなってきた哀ちゃんがそこにはいます。「強さ」とは優しさに裏打ちされてはじめて「本当の強さ」になるのだと知った哀ちゃんは、誰よりも頼もしいコナンくんの相棒となり、作品中で生き生きと活躍しているように見えるのです。

 

「哀」よりも「愛」の方がかわいい。

そう言った博士に対して「哀」という字を選択した志保ちゃん。

でもきっと博士も周りのみんなも、その名前を呼ぶときにはいつも、きっとごく自然に愛を載せているんだと思います。そして哀ちゃんもいつの日かその名前の中に、はっきりと「愛」を見る日が来るのだと思います。

哀ちゃんはこれからも、いくつもの選択をすると思います。でも、灰原哀になってからしてきた選択は決して間違っていなかった。宮野志保の姿に戻ることになっても、このまま灰原哀として生きることになっても、あのとき逃げなかったことが、きっとこれからも自分自身を支えていく。

それは灰原哀=宮野志保の「自由への選択」だった。

いつか哀ちゃんが、そんなふうに思える日が来たらと思います。

 

『黒鉄の魚影』には、哀ちゃんのこんな台詞があります。

「私は変われた。だから、信じて!」

その言葉に込められた強さの中に、今まで哀ちゃんに関わったすべての人たちの思いがあり、愛がある。

これからも灰原哀を、そして宮野志保を、ずっと応援していきたいと思います。