Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理】降谷さんはなぜ赤井秀一の姿になったのか③

①と②をふまえ、降谷さんが赤井さんの死亡を確かめるために、赤井さんに変装した意味を考察します。

 

 まず、誰もが疑わなかった赤井さんの死を、たった一人、降谷さんが信じなかったのは、もちろん「赤井秀一の能力を考えれば、あのような状況で死ぬのは不自然だ」という論理的な疑いもあったかと思いますし、「景光を死なせた男に復讐したい」もあるかと思います。ただ、次の理由も大きいように思うのです。

 

 それは、「赤井秀一に死なれては困る」です。

 

 なぜ困るのか。

 ①と②で考察したように、赤井さんは、降谷さんの投影の対象です。あれほど高スペックな降谷さんの、投影の対象となれるような人はそう多くありませんが、赤井さんは「降谷零の影の部分」を投影するに足る人です。

 ゼロティを見る限り、降谷さんは普段、ちょっとわざとらしいほどに、明るく優しく、余裕に満ちた青年です。が、人間誰しも影の部分(普段は人に見せない部分、悪い部分、嫌な部分)があり、光の影も含めて「1人の人間」は形成されています。

 ゼロティの作中において、降谷さんが影の部分を表に出しているのは、「警察学校の仲間の写真を見たとき」「ハロと自分の幼少期を重ねたとき」そして、「赤井秀一のことを考えたとき」です。

 赤井さんという人は、降谷さんにとって、影の部分を露わにさせる人なのです。そしてこのような側面があることで、「人間としての降谷零」ははじめて成り立ちます。

 

 ところで、心理の専門家は、「成熟した自己を持っていること」を求められます。「成熟した自己」というのは、「影の部分を消し、光の部分だけを持つ自己になること」ではありません。「影の部分も光の部分も、全部ひっくるめて自己なのだと認めること」です。ただ、ここまで行くのは容易なことではありません。心理の専門家でさえ、年長の専門家と教育分析を繰り返し、その状態に向けて努力します。

 

 降谷さんは、自分の「影」をまだ充分に自力で受け容れることができていません。もしもできていたら、ライに自分を投影する必要=ライを嫌う理由はないからです。

 つまり今、降谷さんは自分が受け容れることのできていない「影」の部分を赤井さんに投影することで、問題を外在化し、内的な心の安定を保っていると考えられます。

 もしも赤井さんが死んだら、降谷さんは投影の対象を失います。これは降谷さんにとって、本当に孤独になることを意味します。投影の対象である赤井さんがいなくなれば、降谷さんは「自分の影の部分」から目を背けることができなくなるからです。

 それは、新たな苦しみの始まりを意味します。赤井さんを失えば、降谷さんは、「自分の影を自分で引き受けなくてはならなく」なってしまいますが、親しい人々の死、そして何より景光の死に傷ついている降谷さんには、まだ「成熟した自己」を持つ余裕がありません。

 今は、問題を外在化する対象、つまり憎む対象が必要なのです。そして赤井さんは、降谷さんの周りでたった1人、降谷さんの影の部分を引き受けることができる人です。

 

 赤井秀一に死なれては困る。だから彼の死を認めるわけにはいかない。

 降谷さんは変装して歩くことにより、赤井さんが「確かに死んでいるという確証」ではなく、「生きているかもしれない可能性」を探っているように思います。

 

 ではなぜ、その過程で赤井さんの姿に変装する必要があったのか。

 

 赤井さんに「なる」ことで、降谷さんは「憎んでいる対象との同一化」をしています。それはすなわち、「自分の影との同一化」でもあります。最も憎んでいるものに自分が変装したとき、降谷さんはじっと鏡を見て、その男を責めたと思います。

 

「お前ほどの男が、なぜ景光を救えなかったのか」

 

 それは、赤井さんへの言葉であると同時に、降谷さんによる、降谷さん自身の影への言葉です。

 

 赤井秀一の中に、降谷さんは自分を投影しました。そして赤井さんが死んだと聞いたとき、自分自身が赤井秀一の姿になり、投影した影に同一化することで、自分を責め、罰した。赤井秀一を失ったかもしれない当時、そうすることでしか、降谷さんは景光さんの死を受け止めることができなかったのだと思います。

 降谷零の姿で、降谷零に対して直接「なぜ救えなかった」と問いかけ続けることは、あまりにも降谷さんの心を破壊するからです。

 降谷さんは、まだ生きていなくてはなりません。生き延びて、組織壊滅という目的を達するため、警察官として日本を守るためには、降谷さんはまだ壊れるわけにはいかなかったのだと思います。赤井秀一さえも決定的に失ってしまったのだと認めることは、そのときの降谷さんにとって耐え難いことだったのではないでしょうか。

 

 だからこそ、自分が赤井さんの姿になり、その姿に向かって投影を続けるしかなかった。そこに、降谷零という男の、強さと孤独と寂しさが現れています。

 

 さらに、降谷さんはその姿を、人々の目に晒します。

 これによって、降谷さんは仮想の「死」を経験していたのではないかと思います。

 

赤井秀一は死んだ」と思っている人々の前にあって、赤井秀一の姿で歩くことは、死体を晒すも同然の行為です。「あなたは死んだはず」という視線を受け、降谷さんは死に接近します。それは降谷さんにとって、死んでしまった親友・景光さんと、投影の対象であった赤井さんに接近する行為でもあります。

 

 おそらく、赤井さんが死んだと聞かされたあとの降谷さんは、相当に「自分の死」を願っていたのではないでしょうか。「任務遂行のため・志半ばで死んだ人たちに報いるためには断じて死ねない」と、「死にたい」の間で激しく揺れる降谷さんの、死へ傾いたときの姿が、あの「火傷赤井」の姿だったのではないかとも思うのです。

 

 降谷さんが自分の影を、赤井さんに投影せずに受け容れられるようになるとき。

 そのとき降谷さんははじめて、赤井秀一という人と、本当の意味で「出会う」のだと思います。

 そしてそのときが、景光さんという降谷さんにとって唯一無二の人の生と死がまるごと、降谷さんの中でしっかりと抱きしめられるときなのではないでしょうか。