Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理・所感】世界への扉が開かれる〜降谷さんとエレーナさん

※本記事では10/16本誌掲載の『名探偵コナン警察学校編』について深く言及しています。未読の方はご注意ください。

 

 降谷さんが警察官を目指した理由が明らかになりました…。いつか来るのだろうと思っていたことがあまりにもさらりと突然来てしまい、「やはり」と「しんどい」が渦を巻いております。

 

 今回のワイルドポリスストーリーを読んで何より感じたことは、降谷さんの人生のテーマは「愛」なのだなあということです。

 より正確に言えば、ラブコメ推理漫画である「名探偵コナン」という作品の根底に流れるテーマの1つは「愛」なのだと思うのですが、その作品世界において得体の知れない男(ときには非情な男)として描かれてきたトリプルフェイス・降谷零を支えるものもまた「愛」である、ということがはっきりと示されたのが、ゼロティーでありWPSなのだなあ、と。

 愛の力は偉大だね…。

 

 降谷さんは、エレーナさんにどうしてももういちど会いたくて、彼女の行方を探すために警察官になった。学生時代にもできる範囲で探したのかもしれませんが、それではどうしてもぶつかってしまう壁があり、「警察官になるしかない」と決めたのではないかと推察します。

 降谷さんのその人生を賭けたと言ってもいいような行動の根底にあるのが、エレーナさんというひとりの女性に対する愛と感謝でなくて何だろうかと思いますし、降谷さんが他人であるエレーナさんをそこまで慕うことができたのには、やはり理由があるのだろうとも思います。

 

 今回は、そのことについて考察します。

 

 私は当ブログにおいて、降谷さんには母親がいないか、または母親との関係が希薄な環境であるという仮定のもとに考察をしています(詳しくは過去記事をご参照ください)。

 その根拠の1つが、ゼロくんのエレーナさんに対する不器用という言葉では言い表せないような甘え方です。

 

 私がゼロくんを見ていて最も切なくなるところは、「この子は、理由がなくては人に甘えてはいけないと思っているんじゃないかな」というところです。

 心理学には「知性化」という言葉があります。これは自分にとってつらいことや不条理なことを、半ば無理やりな理屈を作ることによって納得させようとする防衛の一種です。ゼロくんは、「甘えたい」「抱きしめられたい」「優しくされたい」という子どもとして当たり前の感情を、知性化によって抑え込んできたのではないかと思えてしまうのです。

 知性化という防衛は知能が高い人、特に言語能力が発達している人に起こりやすい防衛です。おそらく降谷さんは頭の良いお子さんだったと思うので、甘えられないとき、何か理屈をつけて無理に自分を納得させ、その感情を抑え込んできたのではないでしょうか。

 それが習い性になっているために、エレーナさんに甘えるときも「何か理由がなくては」と思ってしまうのではないかと思うのです。それがたとえ「わざと怪我をする」という、自分を傷つける行為だったとしても。

 

 ところで、なぜ「甘えたい」は子どもにとって当たり前の感情なのでしょうか。

 それは、まだ発達の途上にある子どもは、「世界が安心できる場所である」という確証を十分に持つことができていないからです。

 

 降谷さんと母親の関係については以前の記事で、クラインという心理学者の説を引いて考察しました。

 乳児期の母親(または母親的役割の人)との関係がその後の人生に大きく影響するというのは、精神分析の世界での定説のようなものです。もちろん発達の世界において精神分析はあくまで1つのアプローチなので、他のアプローチ法を取る人からは「母親との関わりはその後の発達にあまり関係がない」という研究も出されています

 が、私はやっぱりここに重要なものがないと、多くの人が苦しむ「愛着障害」の説明がつかないと思っているので、ここには人間形成においてすごく重要なものがあるという見地から考察を進めたいと思います。

 

 生まれたてのあかちゃんは、混沌とした世界にわけもわからず放り込まれた初心者です。

「自分がいる世界はいったいどういうところなのか」がよくわかっていない、つまり世界への不安を持っています。その上、おなかがすいたりおしめが濡れたり暑かったり寒かったり、「なんか不快」ということが次々に起こります。あかちゃんは結構大変です。

 そこへ登場するのが「お母さん(母親的役割の人)」です。お母さんはあかちゃんの不安を次々と取り除き、心を満たしてくれます。何を言っているのか全然わからないけれど、とにかく抱っこして温めてくれたり、ふわふわした良い感じの表情で自分を見てくれたりするわけです。これはもうあかちゃんにとって、ものすごく「安心する」ことです。

 

 お母さんは、あかちゃんに対して「情動調整」を行なっています。

「情動調整」とは、相手の気持ちを推察し、その気持ちに合わせて反応する行動です。あかちゃんがどんな気持ちでいるかを汲み取り、ときに「大丈夫だよ」と笑顔を作って安心させ、ときに「怖かったねえ」と自分も泣き顔を作りながらぎゅっと抱きしめたりします。

 あかちゃんの笑顔にお母さんも笑って応える、という場面をよく見ます。きっとお母さんは無意識に何気なくやっているのだと思うのですが、あれはあかちゃんにとってめちゃくちゃ大切なのです。

 

 だから、人混みの中であかちゃんが泣いたとき、周囲は「チッ」とかしてはいかんのですよ…。それによってお母さんが不安な気持ちになり、それをキャッチしたあかちゃんが「なんか自分が泣いたことで様子がおかしくなっているぞ」と思ってしまいます。これが何度も積み重なると、あかちゃんが安心して成長できなくなってしまう…。

 あかちゃんは大人が思っているよりも遥かにいろんなことを受け止めている、というのが心理学の捉え方です。

 

 閑話休題

 

 母親によってもたらされる子どもへの安心感は、つまり「世界を信じる気持ち」です。

 喜びの笑顔を向けたとき、それを受け止めて同じような気持ちになってくれる。あるいは悲しくて泣いているときやどうしようもなく怖いとき、側にいて手を握ってくれたり抱きしめてくれたり、温かい言葉をかけてくれる。

 それによって子どもは、「世界は信頼に足るところなんだ」という気持ちを内在化し、安心して成長を続けることができます。

 一方、虐待を受けている子どもは世界を信頼することが難しくなります。自分が泣いても殴られたり無視されたりして余計に悲しい気持ちになる。「世界への安心感」を持つことができず、自分の存在にも他者の存在にも懐疑的になります。世界は自分を苦しめるだけの存在として捉えられます。

 

※では、あかちゃんのときにこの対応を取られなかった人はその後も世界を信じることができないままなのかというと、これは人それぞれとしか言いようがありません。ただ少なくとも「ある程度成長してからでも、それを埋めることは可能なはず」という信念のもとで多くの人が支援に動いていることは確かですし、被虐経験の方が愛する人を見つけ、自分で「幸福だ」と言える生活をしている例は決して少なくありません。ただ、そうでない例もあまりにも多いのですが…。

 

 ここで大切なのは、人生の初期において安心感を与えるのは言葉の内容ではなく、表情や感触、匂いや声のトーン、雰囲気などの非言語的なものだということです。

 たとえば絆創膏ひとつを貼るにしても、情動調整しながら大人が貼ってくれることと、冷たく見向きもされないこと。どちらが「世界を信じる」ことができる人になるか。どちらが「世界は信頼に足る」と安心できるか。

 

 エレーナさんがゼロくんの心を満たしたのは、言葉よりもむしろ非言語的な行動や雰囲気だったのではないかと思います。「自分が痛い思いをしたとき、情動調整して自分を受け止めてくれる」。降谷さんにとって初めての、そしてあまりにも心地よい体験。自分を見て微笑んでくれる、自分のために怒ってくれる。

 そんなエレーナさんから少年ゼロくんが体いっぱいで受け止めたものは、「世界は信じていい場所なんだ」という体験そのものだったのではないかと思います。

 

 甘えることを許してくれた、母性を感じる女性に恋をしたゼロくん。愛をまだ存分に吸い込み、体に染み込ませていたかったときにその関係を突然断ち切られながらも、たぶんエレーナさんからもらったものによって降谷さんの世界への扉は大きく開かれたのだと思います。

 だからこそ、自分に「明るい世界」を信じさせてくれた人にどうしてももういちど会いたい。その一途な思いだけで自分の人生まで賭けることに躊躇いはなかったのではないでしょうか。それは人からどんなふうに見えても、降谷さんにとって全然オーバーなことではなかったのだと思います。

 警察学校時代の降谷さんは、エレーナさんにもういちど会えるはずということをただ信じてそこにいるように見えます。その笑顔には曇りはなく、ただただまっすぐです。きっと人から見て「くだらねえ」と思われる理由だということも降谷さんはわかっていて、でもそのくだらないものは、自分にとって何よりも大切な宝物。

 そのまっすぐで澄み切った感情は幼少期の孤独が前提です。だからこそ切ないのですが、そんな傍観者の切なさなど簡単に振り切るほどに、降谷さんにあるのは「孤独から自分を救ってくれた愛」を信じきる気持ちです。

 

 その能力の高さからたまたま公安に配属され、その任務先で運命のようにエレーナさんが飲み込まれた黒の組織に出会ってしまったのか。それともエレーナさんと黒の組織の関係を知って自ら任務を志願したのか。それはまだわかりません。

 でもエレーナさんの死を知った降谷さんの衝撃と、その死を導いた黒の組織に対する怒りは今も常に新たであることは確かだと思います。

 

 エレーナさんも幼馴染みである景光さんも警察学校の仲間も、みんな今は亡き存在です。

 それでも、今の降谷さんを支えているのは紛れもなく彼らから受け取った愛なのだと思います。ときにどうしようもない孤独に苛まれる夜があったとしても、朝が来ればトリプルフェイスの仮面をかぶって任務を遂行する降谷さんの信念を支えるもの。

「世界は信じるに足る場所だということを教えてくれた」という気持ちが降谷さんを支えているのであれば、降谷さんもまた、この国に生まれる子どもたちやこの国に生きる人たちが、「ここは安心していい場所なんだ」と思えるよう、自分にできることをしよう。そういう願いにも似た決意を持って仕事をしているような気がします。

 その気持ちがあるからこそ、組織という悪を憎む降谷さんの気持ちは普通の警察官以上に苛烈であるのだと思いますし、トリプルフェイスという孤独にも耐えられるのではないでしょうか。

 

 そして、誰よりも愛というものに苦しんだのであろう(そのような描写が際立って多い)降谷さんの根底に流れているものが愛なのであれば、公安警察としてどんな違法作業をし、バーボンとして組織の仕事をしようとも、その生き方として降谷さんははっきりとコナンくんの味方なのだと。

 

 いま何よりも教えてあげたいのは、「あなたが守れなかったと思ってるエレーナ先生の娘・志保ちゃんは生きてますよーーー!!!」ということですね…。それを知ったときの降谷さんがいったいどんな顔をするのか、どんな気持ちになるのか…。

 それは降谷さんにとって、確実にひとつの救いになるのではないかという希望と期待を持って原作を待っています。

【心理・所感】桜と命と降谷零

※本記事では『ゼロの日常』について深く言及しています。未読の方はご注意ください。

 

 本誌の最新エピソードで降谷さんと桜が描写されたことに心を打たれたのは私だけではないと思います。カラー表紙に続いて、今回が2度目ですね…。

 なぜか降谷さんには桜が似合います。桜と降谷さんの生き方には親和性があるというか、桜を置くことで降谷零という人の精神性がより強調される部分があって、それに多くのファンが心を震わせているのではないかと推察します。

 

 また、降谷さんが作中で散る桜の花弁を五枚掴み、「桜の花弁は五枚で一つ…」と呟いていること、桜から警察学校を連想していることから、降谷さんにとっても桜は特別な花であることがわかります。

 

 そこで今回は、「桜」が象徴する心理に降谷さんを重ねてみたいと思います。心理半分、所感半分みたいな文章です。

 桜と降谷さんについては多くのファンが既にいろんな形で表現されていると思うので、私が今更長々と述べるのもおこがましいのですが、自分の思考の記録として書いておきたいと思います。よろしければお付き合いください。

 

 まずは「象徴としての桜の心理学」を簡単にまとめます。

 

 日本人は桜が好き、というのはほぼ定説な気がしますが、古の時代には桜より梅に人気が高かったようです。『万葉集』においては梅の歌が116首に対して桜は42首で圧倒的に梅に軍配が上がります(ちなみにいちばん多いのは萩)。

 

 ただ、『万葉集』には桜児(さくらこ)という女の子のごく短いお話と歌が載っていて、2人の男性の好意の間で悩んだ桜児ちゃんが心を千々に乱れさせた結果、自死してしまう…という悲しいストーリーなのですが、やっぱりこれを読むと日本人が桜に持っているイメージは昔から「儚さ」とか「死」なのかなあと思ったりもします。

 

 また、既読の方も多いであろう「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で有名な梶井基次郎の短編。薄羽かげろうの死体の塊を見て桜の得体の知れない美しさと「屍体」を結びつけた夭折の天才・梶井の文章がこれほど人の心を掴んだのは、やっぱり桜に「死」を連想する人が多いからなのではないでしょうか。

 

 その他にも西行とか本居宣長とか坂口安吾とか、国文学を紐解けば枚挙に遑がないほど桜は出てくると思いますが、日本人の桜観には「死」とか「儚さ」というイメージがどうしてもついて回ります。

 

 ところで、「儚い」というのは実は心理学的にはそれほど儚くない概念です。

 儚さというのは一見弱々しいものというイメージがありますが、実は「あまりにもさらりと消えてしまった」ものというのは人の心に強い印象を残します(シャボン玉等を使った実験でも実証されています)。

 また、心理学で「喪の作業」といわれる身近な人の死を受け入れるまでの心理的葛藤は、一般的に「長い闘病の末に失った」ときよりも「突然失った」ときの方が強く激しくなります。中には乗り越えられずに精神疾患をわずらったり、希死念慮(死にたいという気持ち)を抱いて本当に実行してしまう方もいるほどです。

 

 これは当然といえば当然の人の心の働きで、予期できるものに関しては、人はあらかじめ準備をすることができます。人はいつか死ぬ。永久不変のものなどこの世にはない。それは普段は意識していなくても誰もがわかっていることで、人の心はまた、それを受け入れることができる構造をきちんと持っています。

 たとえば「宗教」というのは心理学的に見れば、「大切な人が目の前からいなくなってしまう」という本来ならとても耐えられないことから自分の心を守るために発明された防衛装置という側面があります。

 

 ただ、「失われる」ということがあまりにも突然現実になると、人は思いの外打ちのめされてしまうものでもあります。

「ついさっきまで確かにそこに生きていた命」が失われたとき、大切な人を失った悲しみとともに、自分の命というものも実はとても儚いものなんだ、ということに人は気づき、「自分の死」がぐっと身近に感じられます。それは生きているということの危うさを突きつけられる体験でもあり、当たり前だと思っていた自分や身近な人の生を疑う体験でもあります。

 戦争や震災でPTSDを発症した方を襲う苦しみには、この「生への疑い」が強く関係します。

 

 これほどまでに「消えていくもの」を受け入れることは人間にとって難しいのに、どうして日本人は桜が好きなのか。

 フロイト的に言えば「死の欲動」かもしれませんし、ユング的に言えば「普遍的無意識(人類が普遍的に持っているイメージで、これが個人の心の基礎であるとユングは考えた。大地=母とか)」かもしれません。心理学だけではなく文化人類学や国文学の中でも、これに迫っている研究は多くあるのではないかと思います。

 

 また、桜には別のイメージもあります。「始まり」とか「希望」とかです。サクラ組の思い出がある新一くんや蘭ちゃんにとっては、きっと今はこちらのイメージの方が強いだろうと思いますし、それもまた心の動きとして否定されるものでは決してありません。

 たとえば箱庭療法を行なう中で、クライエントさんが箱庭の中に桜を置いた場合、それが「希望」を示すのか「死」を示すのか、あるいはもっと別の意味を持つのかというのは一概に断定はできません。その人を取り巻く状況や周囲に置かれたものから総合的に判断し、その人の心がいまどのような状態にあるのかを見極めることによって、その桜が表すものを考えるのが心理学でもあります。

 

 実際、読者が新一くんたちに重ねる桜のイメージと、降谷さんに重ねる桜のイメージにはかなり違いがあるのではないでしょうか。

 

 私は今まで、降谷さんと桜といえば「日本警察の代紋」を連想し、「守るべきもの」「決意」の表れが強いと見ていたのですが、今回警察学校編の始まりに桜が使われたことから、「大切なものを共有した仲間」と「警察」というものがあいまって、降谷さんのメタファーとしての桜にはもう少し深い意味があるのかなあ、と思うようになりました。

 

 ただ、降谷さんと桜を語るにあたっては、桜が連想させる「死」という言葉よりも、「命」という言葉を使うべきなのではないか、という気がします。

 

『ゼロの執行人』において、降谷さんは「命」という言葉を口にしています。

「僕には命に代えても守らなくてはならないものがあるからさ」

 これは小五郎さん逮捕の際に「何でこんなことするんだ!」というコナンくんの質問に対して発された言葉ですが、ここで「僕には守らなくてはならないものがあるからさ」に加え、「命に代えても」という言葉が入ることにはどんな意味があったのでしょう。

 もちろんこの言葉に降谷さんが込めた最も大きな意味は、松田さんたちがそうであったように、守るべきもののために生命を賭けるという決意だと思うのですが、よく考えるとちょっと違和感を感じるやりとりでもあるのです。

 

 それはなぜかというと、「なんでこんなこと(=犯人捏造という汚いこと)をするんだ」という問いへのアンサーとして、「命に代えても守らなくてはならないものがある」というのは、答えになっているようでなっていないというか、微妙なズレのあるやりとりでもあるからです。

 つまり降谷さんはコナンくんの問いを問いとしてではなく「こんな汚いことをしてあなたは平気なのか?」という自分へのなじりとして受け止め、自分の信念を伝えることでコナンくんとの決定的な立ち位置の違いを示したのではないかとも思います。だからこそコナンくんは、降谷さんを「敵かもしれない」と認識したのではないでしょうか。

 

 降谷さんは、確かに守りたいもののために生命を賭けている。でもそれと同時に、そう簡単には死なないことも決意していると思います。五弁の桜の最後のひとひらである降谷さんにとって、自分が生き続けることは、警察官として最後まで職務を全うした仲間たちが確かにそこに生きていたということの証でもあるのではないかと思うからです。

 この自己存在意味がある限り、降谷さんは軽率に命に言及するような発言は絶対にしない気がします。

 

 では、「命に代えても」の「命」とは、生命以外ではいったい何なのでしょう。

 

 それは、「自分(降谷零)という存在」なのではないかと思います。

 心理学においては、人間が存在するということは、他者と関係を作るということと同義です。「人が意味あるものとして存在する」には他者が必要で、「誰かと関係する」ということで初めて人は人として存在意味を持ちます。

 私は以前の記事の中で、安室さんという人は降谷さんが任務遂行のために意識的に演じている人格であると思う、ということを書きました。この意味において、安室透である降谷さんはおっちゃんや蘭ちゃんたちと本当に「関係している」とは言えません。彼らとの関係性はあくまで安室透という別人格のものであり、降谷さんの存在意味を生み出しているとは言い切れないところがあると思うのです。

 

 もちろん、市井の人たちがポアロに立ち寄ってコーヒーを飲んでいく姿を見ることは、降谷さんにとってかけがえのない時間だと思います。死というものをあまりにも心と体に染み込ませてしまい、人々が当たり前に暮らす幸せな世界にはもう戻れない降谷さんは、ちょっと遠くから、まるで眩しいものを見るように彼らを見ているのだろうと推察します。だからたとえ安室透が演じられている人格であるのだとしても、あの笑顔はきっと嘘ではないのだろう、と。

 

 一方で、やっぱり降谷さんにとってそこは「自分のいるべき場所」ではないし、そこに本当の自分はいない。それは本誌でのお花見における「たまにはこういうのも悪くない」という発言からも推察されます。降谷さんにとって自分はあくまで警察官であり、生きる意味もそこにある。そういう意味で、やはり安室透は決して降谷零ではないのだと思います。

 降谷さんは潜入捜査を続けている限り、降谷零として人と関係することはありません。ゼロに所属してからおそらく誰に対してもそうなのであろう降谷さんにとって、「素の降谷零」として人と関係した…「自分という存在として生きていた」のは、作中の時系列と降谷さんの年齢を照らし合わせて見ると、警察学校の仲間たちと過ごした日々が最後なのではないかと推測します。

 トリプルフェイスの仮面を被り、自分が自分であることの存在意味などかなぐり捨てて、降谷さんは大切なものを守ろうとしている。それが「僕には命に代えても守らなくてはならないものがある」という発言のもうひとつの側面なのだとすれば、降谷さんはこの発言において「守るべきもののため、降谷零としての中途半端な良心などもうとっくに捨てた」と言っているも同然です。

 

 おそらく降谷さんには、大切なものを守るために誰よりも汚れる覚悟をした瞬間が幾度となくあったのだろうと思います。汚れていく生活の中で目的を見失わない強さがあり、『ゼロの執行人』の中ではおっちゃんを逮捕する一方で、羽場さんを生かす道を見出したことに表されるような心も持ち続けているからこそ、降谷零は降谷零なのだとも。

 その「汚れる覚悟」「降谷零でいることをかなぐり捨てる覚悟」「それでも人としての心を持ち続ける強さ」は、同期たちの死を経験する過程で少しずつ深まっていったものなのではないでしょうか。

 

 今回のお話で、降谷さんは桜の花弁を5枚掌にのせ、「願いが叶うおまじない…か…」と呟いています。

 その後、車に向かって歩いていく降谷さんの背中は、それぞれの思いを抱いて殉職していった4人の命を背負っている背中にも見えます。ただそれは、決して背負いたくて背負ったものではありません。できることなら彼らに生きてほしかった。それはきっと降谷さんの切なる願いだと思います。

 もちろん、覚悟を決めて仕事をしている降谷さんは、彼らが決して簡単に死んでしまったわけではないことも、その死と引きかえに大切なものを守ったことも誰よりもわかっていると思います。だから降谷さんは、願いを口にすることはない。「生きていてほしかった」を口にすることは、彼らそれぞれが殉じた決意や誇りを尊重することと相反することだからです。

 でも同時に、降谷さんにとっては自分も含めた警察学校の同期5人の命があったときこそが「花」だったのであり、もうその花が完璧なかたちを取り戻すことはないのだとしても、やはりその花が鮮やかに咲いていた時間が確かにあったことをこの世に留めておきたい気持ちがあるではないでしょうか。

 

 降谷さんが松田さんたちのために生きているのだと言いたいのではありません。

 降谷さんに「誰かのために自分が犠牲になる」という甘えはおそらくないのではないかと思います。原作や映画における降谷さんの働きは、他人からの評価を求めている人のものではないと思いますし、だからこそ彼は表立って賞賛されることは決してないゼロという部署であれだけリミッターの外れた働きをするのだと思います。

「俺は誰に言われたわけでもなく、俺が守るって決めたものを守るからな!そのために汚れることに俺はめちゃくちゃ納得してるからな!」(一人称は「僕」かもしれない)という振り切った感というか思い切りが、冷静な判断力とともに降谷さんにはあるように見えます。

 その根底にあるのは、髪や肌の色によって疎外され続けた自分を愛してくれた景光くんであり、エレーナ先生であり、警察学校の仲間たちの存在なのではないかと思います。愛を知らなかった(と私は勝手に思っている)からこそ、受け取った愛の尊さを誰よりも身にしみて感じたであろう降谷さんにとって、「誰かの無償の愛を受け取る」ということは「誰かに心を守られる」体験だったのではないかと思います。そしてそれによって作られた強い心で、自分の力の及ぶ限りの人たちを守っていこうと心に強く決めたのではないでしょうか。

 たとえ自分の働きが誰にも気づかれることも感謝されることもなく、ときに「汚い人間だ」と非難されるのだとしても。

 

 それでも、これほどまでに強靭な精神力を持つ人である降谷さんと「死」「儚さ」を匂わせる桜に親和性が高いのは、その強烈なまでの命のあり方が「危うい」からなのだと思います。降谷さんの心にはいつも警察官としての誇りを胸に殉職した仲間がいて、降谷さん自身も警察官としての誇りと意志にいつでも殉じる覚悟を決めているのだろうな、と思うと、それは潔く咲いて散ってしまう桜とどうしても重なります。

 でもやっぱり、降谷さんにはその命をしぶとく全うしてほしいし、警察学校の仲間たち4人を心に置きつつも、いま生きている誰かとの関係を降谷零として作ってほしい、と思ってしまう部分も一読者としてはあるのです。

 降谷さんが愛した人がみんな降谷さんに先立って死んでしまうわけではない。降谷さんのその生のあり方を十分に理解しつつも、降谷さんが覚悟を決めてそれに殉じようとするときに、がしっと強く腕をつかんで「死ぬのはまだ早い。なぜならきみは一人で闘っているわけではないから」と力強く言ってくれる「確かに生きている誰か」にいてほしいと思ってしまうのです。

 

 原作者の先生が「安室には孤独が似合う」と仰っているにも関わらず、私が赤井さんやコナンくんにその夢をつい見てしまうのは、読者としてのエゴかもしれません。

 それでも、降谷さんが五弁の桜花の最後の花びらとして散る前に、「こんなにも強く現世に自分を繫ぎ止める人たちがいる」と強く感じ、闘う姿を一ファンとしては見ていたいのです。

 緋色組というのは、安室透でもバーボンでもない「降谷零」が、素顔の自分の存在意味を存分に味わいながら共に闘える人たち、降谷さんに最も「生きている」ということを熱く感じさせてくれる人たちなのではないかと思っています。

【心理】3人の「怖い男」~緋色組の研究

「僕には僕以上に怖い男が2人いるんだ」。これは「ゼロの執行人」での雨の日本橋における降谷さんの台詞ですが、今回はこの「怖い」という言葉がどういう意味を持つのかについて心理学的に考察します。

 

 尚ご承知の方が多いと思うのですが、降谷さんの言う2人の「怖い男」というのがコナンくんと赤井さんであることは、公式に明言されています。なので今回は、降谷さん・コナンくん・赤井さんという「緋色組」の考察となります。

 

 この台詞を読み解くにあたっては、そもそも「怖い」とは何かについて明らかにする必要があります。

 またしても前置きが長くなります。すみません…。

 

「怖い」というのは感情の一種ですが、この「感情」という言葉の概念がわりと厄介なので、まずはそこから整理したいと思います。

※「感情」の定義は意見が分かれるところがありますので、ここから先は私が普段準拠している考え方での説明となります。ご了承ください。

 

 人間には「情動」というものがあります。あまり聞き慣れない言葉かと思いますが、「情動」というのは分解すると以下の3つの要素から成り立っています。

 

・身体的な喚起(心臓がどきどきする、血圧が上がるなど)

・表出行動(笑い声をあげる、いきなり殴りかかるなど)

・意識体験(思考や、悲しみや喜びなどのいわゆる「感情」)

 

 この3つのうち、意識体験(感情)というのは他者からはわからない主観的なものですが、身体的な喚起や表出行動は外からの観察が可能です。

 客観的データを大切にする自然科学系の研究者の方々は、「情動」を「感情の下位概念」として扱っています。平たく言えば、「感情」が発生すると同時に現れる身体的なデータを集めて「感情とは何か」ということを研究しているのです。

 たとえば研究協力者にfMRIに入ってもらって悲しい場面や嬉しい場面の写真を見せ、「悲しいとか嬉しいとかいう感情が起こったときに脳はどのへんが活性化しているのかな」ということを調べたりして、「感情」の本質に迫っています。

 

 つまり「感情」というのは、「何か刺激となるものを受け取ったときに発生する、身体活動にまで大きな影響力を及ぼすほどの力を持つ何ものか」であるということです。

 

「怖い」というのは「嬉しい」や「悲しい」と同じ感情の一種です。

 

 ところで「感情」というのはいつ何に対してでも起こるものではありません。ラザルスさんという方が研究をもとに作ったモデルによると、1つの出来事を知覚しても感情が生起されることとされないことがあります。これは当然で、見るもの触るものにいちいち感情を覚えていたら、人は生きていくのがすごく大変になってしまうからです。

 生活の中で何らかの感情を生起するようなものに出会ったとき、人は瞬時に状況を評価し、「ポジティブな感情」か「ネガティブな感情」のどちらかを発動します。自分の持つ「感情リスト」の中から、ポジティブなら「楽しい」とか、ネガティブなら「悲しい」とかを選ぶわけです。もちろん、1つではなく複数選択することもあります。

 

「怖い」は当然、「ネガティブな感情」の方に入ります。

 

「怖い(恐怖)」という言葉の概念は、「ある危機的な状況に対する緊急的な反応」と説明されます。何か自分の生命を脅かすような状況に直面したときに発動するので、これはかなり動物的な反応ということができます。実際、情動反応は猫や馬などの動物にも起こります。

 

「怖い」という感情が選択されると、「逃げる/戦う/身動きできなくなる」の3つのうちのどれかの反応が誘発されます。

 大抵は回避行動に出ますが、戦う(攻撃する)こともあります。しかし戦うことは手が出るにしろ口論するにしろ「相手と接近すること」なので、「怖い」という感情を持った場合はあまり選択されないことが多いです。接近行動をするのは「自分にとって快である場合」であって、「怖い」ことは「不快」なので…。

 ただ、これは生物学的な見地からの話で、実際には人は「不快なのにあえて接近してしまう」という不思議な生き物でもあります。お化け屋敷に入ってみたり、ジェットコースターに乗ってみたり…。人の心はほんとに不可解です。

 

 そしてここで、降谷さんの「怖い」関しても「ん?」という話になります。

 降谷さんはコナンくんに自ら接近していますし、赤井さん(沖矢さん)のことも見張ったりして、ずいぶん接近しています。なのに「怖い」…?

 

 また、風見さんは降谷さんとの接近を自ら選択して行っているわけではなく仕事として行っているわけですが、ゼロティを見る限り特に避けているわけではないようなので、風見さんのいう「怖い」にも「?」マークが点灯します。 

 

 恐怖という感情は回避行動を誘発することが多い。それなのに回避しないのはなぜなのか。

 この「怖い」という言葉の正体は何なのか。

 

 ここでやっと心理学っぽい話が登場します(いや、今までも心理学なんですが…)。

 

 心理学では、「怖い」という感情を、今まで述べてきたような危機感とは区別した「恐れ/不安」という意味で捉えることがあります。

 おそらく生理学的な脳の活動としては、「思わず回避行動をとるような怖さ」と「不安」は厳密には違う反応を示すと思うのですが、人が普段使う言葉というのはそんなに厳密ではありません。

 普段の生活の中で「怖い」という言葉を使うときを思い出してみてください。「犬にかみつかれそうになって怖かった」というような身体の危機を感じた場合も、「明日のテストでどんな問題が出るかわからなくて怖い」という心理的な不安の場合も、同じように「怖い」という言葉を使ってはいないでしょうか。

 

 執行人で降谷さんや風見さんが言った「怖い」というのは、こちらの「恐れ/不安」の方の意味と思われます。

 

 では、前者の「怖い」と後者の「怖い(恐れ/不安)」はどう違うのか。

 前者の恐怖は、「明確で具体的な危険がある」という認知に基づいて発動されます。生命に対する何か具体的な脅威がある場合の感情であり、現実の危機に基づいている感情です。

 一方で後者の恐怖(恐れ/不安)は、よりわかりにくく、はっきりしない危険についての予期です。より実体のない、起こるか起こらないかすらわからない危険について発動される感情です。

 

 この「よりはっきりしない危険についての予期」である「恐れ/不安」は、対象となる刺激に対して明確な反応をすることができません。戦うにしても何を攻撃していいかわからないし、逃げるにしても何から逃げていいかわからないからです。相手がまるで亡霊のようにぼんやりしているので、どうしようもない。

 

 こう考えると、降谷さんが2人のことを「怖い」と表現したのは主に2つの理由からではないかと考えられます。

 

 1つ目。降谷さんが相手にしているのは、「存在しないはずの存在」だからです。

 緋色シリーズで電話の声を聞き、生きているということは確認が取れたものの姿は見ていない赤井さん。沖矢という不思議すぎる大学院生の姿で生きている彼の実体を掴みたいのは、この「怖さ」を曖昧なものからよりはっきりとした対象として認識したいためではないでしょうか。

 また、もっと厄介なのはコナンくんです。安室さんとして日常的に接する中で「どう考えてもこの子はただの小学生じゃないだろう」と感じてはいるであろう降谷さんですが、その正体が工藤新一くんであるとは知らない。「何なんだこの異様に頭の切れる謎の存在…」という、コナンくんの実体の掴めなさ。

 

 2つ目。その「存在しないはずの2人」が、あまりにも頭の切れる、降谷さんにとってすら予測不可能なことをする存在だからです。

 降谷さんはミストレと緋色シリーズで2人の前に苦汁を嘗めています。日本警察のスパイとして組織壊滅作戦を立て、実行する降谷さんにとって、「次は一体何をしてくるのか?」という思考の読みきれない人物が2人もいることは、下手をすれば命取りにもなりかねません。不確定な要素はできるだけ取り除きたいのに、それが2つもある。これも降谷さんにとっては「怖い」と感じる大きな要因ではないかと思います。

 

 ただそうは言っても、降谷さんだってトリプルフェイスを使い分けているわけです。風見さんが「怖い」と言ったのもまた、「この人の実体は?この人は何を考えているんだ?」が根底にあるのだと思われます。風見さんは警視庁の方なので、警察庁のゼロに所属している降谷さんが何をしているかについては知らないことも多いはず。同じ案件について仕事をしていても、立場が違うことに加えて頭が切れすぎる降谷さんに対して「実体が掴めない」という感覚を持つのは、頷けるところがあります。

 

 でも降谷さんは、風見さんに対して言うのです。「きみには僕の実体が掴めていないだろう。でもきみが怖いという僕には、僕以上に実体が掴めない人間が2人もいるんだ」と。

 

 共に仕事をする部下にさえ実体を掴ませることを許さない降谷さんは、たった1人で「自分以上に実体の掴めない2人の男」と戦っている。それがじわっと出てしまったのが、冒頭のあの台詞なのかな、と思います。

 

 が、この実体のない2人の正体を探り続けていた降谷さんはついに、赤井さんの実体に一歩近づきました。それが黒ウサギ亭から9時間後の2人の邂逅です。

 工藤夫妻までもが登場したそこで、一体何があったのか。

 まだ原作では明らかになっていませんが、少なくとも降谷さんと赤井さんは顔を突き合わせたので、降谷さんの赤井さんに対する「怖い」は実体を持ったものとなり、ぼんやりした不安からは少し脱却したのではないかと思われます。また、もしもお茶を飲みながら「コナンくんの正体は新一くん」ということを聞いたのなら、コナンくんもまた降谷さんの中でよりはっきりとした実体を持ったはずです。

 

 それでも、降谷さんにとって2人が「怖い存在である」である感覚は完全には消えないのではないかと思います。ミストレと緋色シリーズで自分の予測を超えるプランを実行されているため、「思考の読めない人間である。また出し抜かれるかもしれない」という不安は残るからです。

 

 一方、コナンくんと赤井さんにとってもやはり、降谷さんは「怖い男」なのではないかと思います。何せたった1人で赤井さんが生きていることに気づき、追いかけてきた人物です。

 赤井さんが明言している通り、降谷さんは赤井さんにとって「敵に回したくない男の1人」です。この台詞が降谷さんの「僕には怖い男が2人いる」と対をなすものであるなら、やはり赤井さんにとっても降谷さんは頭が切れる上にトリプルフェイスを使い分ける「実体の掴めない男」である気がしますし、それはコナンくんにとっても同様なのではないでしょうか。だからこそコナンくんは、事件現場で安室さんとしての降谷さんを、いつも鋭い目で観察しているのだと思います。

 

 そして(ここからは私の単なる願望も入るのですが)、もしも彼らがお茶を飲みながら秘密を共有し、共同戦線を張ったのだとしても、その「怖い」という感覚は依然として緊張状態を保ったまま彼らの中に残るのではないかという気がします。

 彼らは相手の力を信頼はしても、安心感のある(弛緩した)関係を同等の能力を持っている相手には望んでいないような気もするのです。「彼らにしかわからない領域」の中で共同戦線を張るのだとしたら、最後の最後まで彼らの緊張状態は続くのではないでしょうか。

 

 それは決して「騙し合う」ということではなく、ざっくりとしたアウトラインや目的は確認した上で、それぞれがベストだと考える動きをし、それが最後には見事にぴったり噛み合う、というような。

 それが実現したのが「純黒の悪夢」だったのではないかと思います。真実を追い求めるヒーローが黒の組織という悪に立ち向かうとき、そこには2人の「怖い男」が控えていました。3人は事前に打ち合わせなどしていませんでしたが、目的を同じくすることでその歯車は最後には見事に噛み合い、結果的にあの観覧車へと3人を集結させました。

 

 その明晰な頭脳で常に真実を見極めてきた彼らにとって、「怖い」というのは相手への最大の賛辞なのだろうと思います。ミステリには常に「恐れと不安」がつきものです。次に何が起こるのかがわからない。何が真実なのかが見極められない。それぞれにとって、それぞれが「解けない謎」の部分を持っているという存在。

 予測不可能な「怖さ」を相手に感じる…相手を「ミステリ」だと感じることは、3人にとっては、互いの価値を最大級に認めた証拠ともなる感情なのではないかと思うのです。

(もちろん、新一くんにとって最大のミステリは蘭ちゃんですが!)

 

 この3人の関係の変化については、近いうちに原作で何か明かされるものがあるのか、それとも来年の映画で「異次元の狙撃手」級のとんでもない弾丸が発射されるのか…

 ほんとにわくわくさせてくださる素敵な作品だなあ、と生殺しにされながら思う次第です。

 

 来年の映画のタイトル、いろいろな予想が出ていますが、最初の3文字はやっぱり「緋色」なんでしょうかね。最後の4文字は、濁点がなかったのですべて清音の可能性が高いのかな…。真っ先に思いついたのは「緋色の痕跡」なんですがあんまりインパクトがないかな…。

 かっこいいコナンくんと赤井さんに大期待です。

【心理】トリプルフェイス~ドラマツルギーと「沈められた」降谷零

 いつかきちんと分析したいと思っていたトリプルフェイスです。

 まだ材料が揃っていないので精神分析的な視点からは難しいのですが、今週のアニメでとうとう降谷さんと赤井さんが顔を合わせるということで、現時点での「トリプルフェイス分析」を書いておきたいと思います。

 

 ちなみにこの分析のヒントになったのは、twitterでのある方の(たぶん何気ない)呟きだったのですが、「それかー!!」っていろいろ謎が解けた部分がありました。人のお話を聞くとほんとに発見がありますね…。ありがたや。

 

 今回は社会心理学のお話です。

 

 まず、タイトルにある「ドラマツルギー」って何?という話からです。

 ご存知の方も多いと思うのですが、研究には「量的研究」と「質的研究」という分類があります。心理学で言えば、量というのは多くの方々からデータをいただいてそれを統計分析にかけるような方法、質というのは少数の方からインタビュー等を取ってそれを分析する方法です。

 

 ドラマツルギーは主に質的研究の方に関係する概念の1つです。ゴフマンという社会学者が提唱しました。

 平たく言いますと、「社会生活にはなんか演技性みたいのがあるよね」という考えを理論化したものです。

 この理論の中では、人はみんな舞台の上の演者のようなものとして捉えられます。私たちにとって社会は一つの舞台であり、人は仮面をかぶって観客の前で「社会的な役割」を演じているのです。

 ゴフマンは、「社会の中では、私たちは人に受け入れられそうな自分のイメージを作って、それを演じているよね」「そしてその役柄を演じているとき、観客(周囲の人々)に『こういう私を受け入れて』って暗黙のうちに求めてるよね」と言います。

 また、ライトの当たる表舞台が存在すれば、当然のように舞台裏も存在します。そこでは演者は仮面を外し、本来の自分自身になります。またそこは、表舞台でどのようにふるまうかをリハーサルする場所でもあります。

 さらにゴフマンを支持している研究者は言います。「表舞台の自分(人に認識されている自分)と舞台裏の自分(本当の自分)は、ぴったりと一致することはない」。

 

 

 ちなみにこの理論には、当然のように批判もあります(批判のない理論なんてないですが)。たとえば、「誠実な人は誠実な役割を演じているだけだっていうのか!?」とか、「より多くの人をだますことが社会でうまくやる秘訣だと言いたいのか!?」とかです。

(ほんとに、社会学者の方々に怒られそうな表面的かつざっくり説明なので、詳しく知りたい方はドラマツルギー関連の本をご参照ください…)

 

 前置きは以上にして、いよいよトリプルフェイスのご登場です。

 

 社会的な自己イメージは作られたものである。

 逆を言えば、「他者にどう見えるか」を操作することによって、自己イメージは如何様にも作り変えることができる。

 これをよく心得た上で、自分を見る他者の目を微細にコントロールしている。それがトリプルフェイスとしての降谷さんだと思うのです。

 

 毛利家や少年探偵団や黒の組織など、安室透/バーボンという名前で接している人たちの前で見せている顔は、降谷零が行なっているパフォーマンスです。それがあまりにも自然であるために、人々はそれが演技であることに気づかない。

 一般的な人というのは、社会という舞台の上で演技をしているとはいっても、やはり本当の自分がそこに見え隠れしてしまうものですし、それが普通です。表と裏の自分をいつでも意識して使い分けている人はいません。ほとんどの人は無意識にできる範囲でこれを行っていますし、いくら表舞台でうまくやろうとしても演じきれないことも多いので、精神的に不安定になったりお酒の力を借りたりするわけです。

 ですが、おそらく意識的に、しかも完璧にそれをやっているのが降谷さんです。虚構を本物だと信じ込ませる能力が普通ではない。

 私は以前の記事で「探偵事務所やポアロやゼロティでの降谷さんの顔は一面でしかなく、その下には海に浮かぶ氷山のごとく巨大な塊があるように見える」というようなことを書きましたが、ドラマツルギーの概念をプラスすると、水面に浮かんでいる部分はすべて、完全にコントロールされたものということになります。

(※もちろん作者の先生方は「パフォーマーとしての降谷零」を十分に理解された上で描かれていると思っています。)

 

 なぜ降谷さんにこんなことができるかというと、「日常生活には所詮は演技的な側面がある」と明晰に理解しているからではないかと思うのです。

 

 ドラマツルギーの概念で言えば、誰もが演技性を持って生活している。であれば、その演技性を最大限に生かして(というか逆手に取って)、完璧に「違う人格」で振る舞うことも可能ではないか。

 

「個人のアイデンティティは周囲からの目によって決定される」。

 ならば与えられた舞台の上から観客をコントロールすることで、本来の自分とは全く違うアイデンティティを自分の印象として相手に植え付けることも可能なはずではないか。

 

「安室さんはこういう人」「バーボンはこういう奴」

 毛利先生や蘭ちゃんやジンやウォッカなど…彼らが「自分の目で見て判断している」と思っている安室透/バーボンは、実は「降谷零によって判断させられている」ものなのではないでしょうか。

 

 そして複雑なことに、正体である「公安警察官・降谷零」という人格もまた、ドラマツルギーの考え方に従えば1つのパフォーマンスでしかありません。

 公安警察官は降谷さんにとって社会的な顔の1つです。これは、一般人の私たちが社会で生きていく上で素の自分を丸出しにせず、職業に相応しい役を無意識のうちに演じているのと一緒です。安室やバーボンを演じているときよりは立ち位置として舞台裏に近いかもしれませんが、それでも公的な立場=表舞台である以上、観客を意識したパフォーマンスであることに変わりはありません。

 

 つまり、「トリプルフェイス」の3つの顔は、すべて表舞台におけるパフォーマーとしての降谷零であり、そのどれもが本当の降谷さんではないということになります。

 

 そして何より、トリプルフェイスを演じるために自分をコントロールしているということは、同時に「他者をコントロールしている」ということでもあります。トリプルフェイスの凄さというか降谷さんの怖さは、ここにあるのではないかという気がします。

 私は何度めかの「執行人」鑑賞のとき、エンディングアニメで朝食を持ってきた降谷さんの笑顔を見て反射的にゾッとしたことがあったのですが、これはトリプルフェイスとしての降谷さんの凄みみたいなものを感覚的に受け取ったからなのかな、と今は自己分析しています。

 自分をコントロールすることはある程度誰でも可能だと思うのですが、出会う他者全員を自分が望んだ人格に見えるようにコントロールするというのはものすごくメタ的な認知を要求されますし、一緒に過ごしているとある程度は湧くはずの「情」を完璧に押し殺さなくてはならない行為だと思います。

 これはもう、降谷さんが自分の「愛情欲求」を完全に殺して任務に徹している姿だと思うのですが、彼の中にある孤独を考えたとき、そこにはまだちょっと言葉にできないものを感じます(後日分析したいと思います)。

 

 では、降谷さんの舞台裏の顔…本当の顔を、誰も見たことがないのでしょうか。

 この舞台裏での顔は、普通の人であれば家族や親しい友人には断片的にであれかなり見せてしまうものです。降谷さんの場合は…ハロ…?

 

 ハロちゃんは可愛くて賢いですが、ここでは人間に話を限定します。

 降谷さんが3つの人格を使い分けていることを知っており、かつ日常的に降谷さんと接しているのはコナンくんです。

 では、コナンくんは舞台裏の降谷さんの顔を知っているのでしょうか。

 コミックス未収録の、雪山での教会のエピソードにおいて、コナンくんが降谷さんと2人きりになったとき、組織の幹部であるラムの正体について降谷さんに聞くシーンがありました。

 降谷さんはもちろん「安室透」として教会に行っていたのですが、ラムの話題であればコナンくんは当然、安室透でもバーボンでもなく降谷さんに尋ねています。そのため、あの数コマの降谷さんは「潜入捜査官の降谷零」であったわけですが、降谷さんの表情や言葉遣いが、いつもの安室透から大きく離れることはありませんでした。コナンくんを尊重し、ヒントも与え、自分の心の中の逡巡も少し口に出しながら、やはりあれはパフォーマンスの状態であったと判断できます。

 

 では、舞台裏の顔…素の降谷零は一体どこにいるのか。

 たとえば次のようなシーンが挙げられます。

 

1、過去に深く関わるシーン

 トリプルフェイスを演じる前の姿や、当時を思い出す場面です。

 本編で言えば、景光さん・高明さん・エレーナ先生と関わる小学生や中学生(高校生?)のときの降谷さん。このときはまだ未成年ですし、後に演じる2つの人格も持っていないので、かなり素の降谷零に近いのではないかと思います。ただこのあたりは、「現在の降谷零」ではないですが…。

 現在でいえば、エレベーターの前で「ゼロ」の声に反応したとき、ゼロティの警察学校の友人の写真を見たシーンや、ハロちゃんを拾ったとき(幼少期の自分を思い出しているので)がそれに当たるかと思います。純黒で松田さんに語りかけるシーンもそうなのかな…。

 

2、景光さんを巡る赤井さんとの因縁のシーン

 景光さんの自殺後の屋上や、来葉峠で復活した赤井さんとの電話、工藤邸での赤井さんとの拳銃突きつけ合いなどは、原作者の先生が「素の降谷零」を描いている場面だと思います。純黒の殴り合いもこれに相当するように思います。

 赤井さんが最も素の降谷零を見ている…。というか、赤井さんはむしろ「安室透」を見ていないですね。降谷さんは赤井さんに会うと、反射的に自ら仮面を剥ぎ取っているような。おそるべし、赤井秀一

 

3、「ゼロの執行人」でコナンくんの協力者になってから

 実はずーっと心に引っかかっていたコナンくんの表情があります。

 正面から来たモノレールに、例の狂気の表情を浮かべて突っ込んでいく降谷さんを見てコナンくんが浮かべた、「はっとした表情」です(そのあと一気にアクセルを踏み込んで180キロオーバー)。あれはコナンくんが、安室透ではない「素顔の降谷零」を見たことに気づいたというか、「安室透と降谷零の人格の裂け目」みたいなものをあの狂気の表情から読み取ったのではないかと思っています。

 また、コナンくんを掴んで発砲し、ビルに飛び込むまでの必死さはもう、「仮面なんか被ってる場合じゃねえ!」という勢いを感じました。

 私が執行人で降谷さん沼にはまったのは、かの有名な恋国発言よりむしろこの2つのシーンだったと思いますし、実はそういう人は多いのではないかと密かに思っています。

 それほどまでに、トリプルフェイスの仮面をすべて脱ぎ捨てた降谷零は魅力的だったのですよ…。

 

 

 …こうして見ると、舞台裏の降谷零という人には、かなり感情的というかリミッターが外れているというか、やや普通ではないものを感じます。

 逆に言えば、そこまでの状況にならないと素が出てこないほど、「降谷零」の本当の人格は、彼みずからの手によって奥底に沈められているということなのかもしれません。

 

 当然ながら、人格は奥底に沈められれば沈められるほど、浮上させるのにも時間と労力を要します。解離性同一症(多重人格性障害)の方の治療に、かなり根気強さと長い時間がかかるのと似たものがある気がします。

 降谷さんの場合は自分の手で意識的に沈めているので病とは少し違いますが、それでも複雑な精神構造を持つ降谷さんのこと、すっきりと「降谷零の人格でまた統一されました!」みたいなことに果たしてなるのかどうか…。もしかしたら自覚している以上に、2つの人格が降谷さんの精神構造に深く入り込んでいる可能性というか、降谷零という人の新たな扉を開いた側面もあるのでは?と思ったりします。

 このへんは、また別の機会に考察したいと思います。

 

 いつか組織が壊滅し、安室透とバーボンの人格が消えるとき、この奥底に沈められた「降谷零」が浮かび上がってくるとして、それが降谷零という人と周囲をどう変えるのか。あるいは深く沈めたままの降谷零の深部までコナンくんや赤井さんが潜っていき、彼を引き上げることになるのか。

 それには景光さんの死がどのような形で描かれるかがかなり深く関わってくるのではと思います。原作が進んでいくのが、本当に待ち遠しいです。

【所感】ダークヒーローとしての降谷零

※今回の記事は心理学的考察ではなく、ただの「ゼロの執行人」からの所感です。

 

「コナン」が東映小学館のドル箱であることは、私のようなライトなファンにあっても、「ゼロの執行人」前からの認識でした。ただ、「ゼロの執行人」の興行収入がこれほど急に突き抜けることは、おそらく関係者にとって予想外であったのではないかなあと思います。

 

 本作の興行収入爆上げの大きな原動力の1つとなったのが降谷さんの存在であることは、多くの人が認めるところだと思います。それにしても、なぜこの方がこれほどの魅力を備えたキャラクターとなり得たのか。それを知るためには、「零を聴き終わるまでがゼロの執行人」とまでファンに言わしめた、福山雅治氏作の主題歌の秀逸な歌詞がキーになるように思います。

 

「真実はいつも一つ でも 正義はそう涙の数だけ」

 

 正直なことを言えば、この歌詞を聞いたとき、私はちょっと「何ですって?」という反感を持ちました。「真実はいつも一つ」は、コナンの絶対的テーゼです。その言葉に「でも」という反語を突きつけた。それはある意味、コナンの否定であるというふうにも受け止められたからです。

 私は降谷さんに最も興味を持ってはおりますが、基本的には「名探偵コナン」登場人物を箱推ししています。誰が欠けてもあの世界は成立しないと思うからです。(当たり前か)

 そしてその中でも、「コナンくん」は物語最大のヒーローであり、特別な存在だと思っています。

 

 この作品は、「工藤新一少年の事件簿」でないからこそ、これほど息の長い作品になったと思うのです。

 超人・工藤くんのかっこよさだけで、作品がこれほどのコンテンツになったとは思えません。やはり息の長い作品には、ある種の「悲劇性」が必要です。

 

 私は、「名探偵コナン」を、やや異形の「貴種流離譚」と捉えています。不本意な身分(7歳の少年)に落とされた主人公が、人々との出会いによって、本来の姿では成し得なかった成長を遂げる「工藤新一の成長譚」であるという側面があると思うのです。名作エピソード「月光殺人事件」は、まさにそれが色濃く出た物語でした。

 たとえば「ゼロの執行人」において、少年探偵団のみんなが、自分たちの行動が本当に意味していたことを最後まで知らないし気付きもしないのは、まだそれにふさわしい成長年齢まで達していないからです。それはまだ彼らにとって「知らなくていい世界」なのです。

 が、コナンくんは17歳であるがゆえに、そして頭の切れる子であるがゆえに、本質に接近し、真実を見極めます。そして、大人になっていくための糧とすることができます。

 

 今までの映画でも、コナンくんはさまざまな事件と遭遇し、真実にたどり着くたびに、人々の切実な願いや、純粋な愛に触れてきました。コナンくんは逃げません。博士や服部くんや哀ちゃん、時にはおっちゃんや捜査一課の刑事さんたちの力を借りながら、考え抜き、勇敢に戦い、成長を遂げてきました。

 コナンくんにとって、世界は「救うに足るもの」です。真実を見極めることで、コナンくんは「悲しみが表面を覆っていようとも、世界はこんなに美しい」ことを私たちに見せてくれてきたのだと思います。

 

 そこへ映画22作目にして登場したのが、降谷零という男です。

 この人が、コナンくんにアンチテーゼを突きつけました。「真実は一つであろうとも、きみの正義が誰もにとっての正義ではない」と。それはつまり、「真実を暴こうとも、それは、きみの正義が誰のものより正しいという証明にはならない」と言っているも同然です。もしもそうでないとしたら、いったい真実は何のために暴かれるのか?犯罪を暴くことは、終わりではなく「互いの正義を白日の下でぶつけ合う場が設定された」という、始まりに過ぎないのではないか?

 

 降谷さんはそれを説明しません。それは降谷さんにとって自明のことであり、コナンくんにそれを説く役割が自分に振られているとも考えていないからです。だからコナンくんにはわかりません。混乱し、疑心暗鬼になります。いったいこの人は何なんだ?という圧倒的な異物感が、降谷さんに対するコナンくんの思いの中にはあります。

 

 もしも降谷さんの正体が公安ではなく、「黒の組織」の一員でしかなかったとしたら、この対立構図はこれほど複雑にはなり得ませんでした。いかなる理由があっても犯罪は許されない。コナンくんの強い気持ちが世界を救う、いつもの映画になったと思います。

 ところが降谷さんは、コナンくんの味方である「警察組織の人」です。味方側にいるのに味方ではない。目的は同じでも志が違う。これがコナンくんを揺らします。「どうしてこんなことするんだ!」と叫び、「今回の安室さんは敵かもしれない」と考えます。

 端的に言えば、降谷零はコナンくんにとって、「汚い大人」だったのだと思います。犯罪者ではないのに、汚い。これがコナンくんの異物感の正体なのだと思います。

 そこが、降谷零がコナン世界において異様な人である所以です。「味方なのに汚い」は、今までのコナン世界にはいない人物です。(「敵なのにきれい」はあります。)

 

 これまでコナンの対照となってきたのは、常に犯罪者でした。殺人やテロなどを身勝手な動機で行うゆえに、彼らは決してコナンのアンチテーゼとなる対等な力を持ちませんでした。(成実先生や明美さんは例外です。)

 ところが降谷さんには、アンチテーゼたりえる基盤があります。彼は警察組織の一員であるだけでなく、コナンくんにとって最大の敵である黒の組織を殲滅させるべく、活動しています。降谷さんが手を汚すのは「国を守るため」であり、そこにかつてコナンくんと対峙してきた犯罪者たちのような身勝手な私情は含まれません。

 つまり降谷さんは、「ダークヒーロー」です。今までコナン世界において、最も「ダークヒーロー」に近づいたのは、ハードボイルドな捜査官・赤井さんだと思うのですが、赤井さんはコナンくんの味方であることが明言されており、あまり影の部分がありません。

 一方で、降谷さんには、あまりにも「見えない・見せない部分」が多すぎるのです。その上で、彼はヒーローであるコナンくんと目的を同じくし、命を賭けて仕事をしています。

 

 ところで、「ダークヒーロー」とは何でしょうか。

 コナンの世界における、ヒーローに対するアンチヒーローの代表格とされてきたのは、怪盗キッドだと思います。シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの図式を踏襲したこの関係性は非常にわかりやすいです。また、コナン(工藤新一)とキッド(黒羽快斗)は同年齢であり、ここにスポーツ漫画におけるライバル関係のようなものを見出すこともできます。キッドはピカレスクロマンですが、あくまでそこには爽やかさがあります。「アンチヒーロー」が必ずしも「ダークヒーロー」になるわけではないのだと思います。

 

 ところが、降谷さんはダークヒーローとなる資質を持っています。キッドが非常に個人的な・かつ純粋な理由で戦う、少年っぽさを残したアンチヒーローであるのに対して、降谷さんは警察組織を背後に持ち、ゼロに所属するがゆえ違法作業によって強引に公的な権力を行使することもできます。

 降谷さんがどのような動機で警察官になり、ゼロとして活動しているのかは原作では明らかになっていないため、確かなことは言えません。が、「ゼロの執行人」において、推理力と行動力・仲間との絆・何より蘭ちゃんへの愛という個の力で戦おうとするコナンくんとは対照的に、降谷さんは公的な権力を使って犯人を、そしてコナンくんを追い詰めます。

 コナンくんと降谷さんは、最初から「シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパン」にはなりえないのであり、レストレイド警部と言うには降谷さんはあまりにも頭が切れ、狡猾です。かと言って、降谷さんはモリアーティでもありません。コナンくんにとって、降谷さんは「倒すべき相手」ではないからです。

 

 この扱いにくさこそが、「ダークヒーロー」の条件なのだと思います。

 最終的にコナンくんと降谷さんは共闘しますが、最後のシーンでコナンくんが降谷さんを問い詰める様子に甘さはありません。コナンくんにとって、降谷さんは最後まで「敵かもしれない」のです。2人が互いに背中を向けて去る描写でこの映画が終わるのは、降谷さんがコナンくんにとって、現時点では決して赤井さんたちと同格にはならないことを暗喩しているようにも思われます。

 黒の組織云々ではなく、これは生き方の問題でもあるのだと思います。降谷さんの生き方とコナンくんの生き方は交わらない。

 

 だからこそ、降谷さんはコナンくんの絶対的テーゼに「でも」を突きつけることを許される存在であり得ました。それはつまり、降谷さんはコナン世界において、圧倒的に異端であり、孤独であるということを表しています。

 

 降谷さんの役割は、コナンくんが背負えない部分を背負っていくことだと思うのです。

 人間一人が背負える量というのは、ある程度限界があります。コナンくんは光を背負えば背負うほど、影を背負えないのです。その影の部分を背負うのが、降谷さんという人なのだと思います。

 だからこそ、コナンくんは降谷さんを断罪できないのではないでしょうか。「ゼロの執行人」におけるコナンくんの最後の微笑みは、「この人は俺には背負えないものを背負って戦い、その上で、俺にしか背負えないものを任せてくれたんだ」という微笑みなのかもしれないと思います。

 

 これからも、降谷さんはコナン世界で、コナンくんとは別の方向を向いて生きていくのだと思います。コナンくんという眩しいほどのヒーローに対するアンチヒーローではなく、コナンくんが決して背負えない影を引き受ける、誇り高きダークヒーローとして。

【心理】「情報屋」降谷零

 なんだかいつも降谷さんの弱い部分にスポットを当てているような気がするので、「降谷零がいかに有能か」についても考察してみたいと思います。

 

 今回は、精神分析ではなく認知心理学の話になります。

 認知心理学は専門ではないので、知識がぼんやりしている…ご笑覧ください。

 

 降谷さんは、ゼロという公安警察官や協力者を統括する部署に所属していながら、自ら実働する人です。実働させたいならもっと適切な配属先があったんじゃないか…?とも思うのですが、きっとゼロがどうしても欲しがるほど優秀で有能だったのであろう、と私は勝手に脳内補完しています。

 降谷さんがキャリアなのかノンキャリアなのかは不明ですが、きっとこれからゼロティの警察学校編で明らかになっていくのだと思われます。

 

 さて、一口に「優秀、有能」と言っても、その評価にはさまざまな観点があります。具体的に、降谷さんはいったいどのような点で有能なのでしょうか。

 キールは降谷さんことバーボンを、「情報収集及び、観察力・洞察力に恐ろしく長けた探り屋」と評しています。

 この台詞から、降谷さんの有能さが具体的に考察できそうです。

 

 まず、「情報収集能力が高い」というのがどういうことなのかを考えていきます。

 

 人間はさまざまな情報(=刺激)に囲まれて暮らしています。特に人や物が多い場所においては、その刺激は膨大かつ雑多なので、人は自分に必要な情報だけを取捨選択して生きています。これは「カクテルパーティ効果」という現象として有名ですが、パーティのような雑多な情報が飛び交う場面において、自分が必要だと思う情報だけに焦点を合わせ、他は拾わずノイズとして処理するという働きが、人間の脳には備わっているのです。

 

 しかし、刺激量をどのくらいの取捨選択できるか、つまりどれだけ敏感に刺激を受け取るかということには、かなり個人差があります。耳や目や肌などなどから入ってくる情報(刺激)を、取り入れすぎてしまう人もいれば、取り入れなすぎる人もいるのです。

 

 この点、降谷さんは、刺激について平均よりは敏感な人であるということは予想できます。そもそも鈍感な人は情報屋に適性がありません。

 

 一般的に刺激を受け取りすぎてしまう人は、非常に生きにくいことが多いです。なぜ生きにくいかというと、あまりにも多く刺激を受け取ると、持っているリソースでは対応しきれないからです。処理しきれないのです。

 このような人たちは、蛇口からジャージャーと流れてくる水(刺激)にいつも晒されて「あわわわ」となっている状態です。蛇口の弁を調節したり、水を容器に入れて処理したりできればいいのですが、そのような手段を思いつくことができなかったり、思いついても現実的に対応できなかったりするので、あわあわしてしまうのです。

 いちいち音や光に過剰反応してしまっていては、たぶん公安でのお仕事や犯罪組織への潜入は務まらない…。敏感であればあるほどいいというものではないのが難しいところです。

 

 ところが降谷さんはそうではありません。

 基本的に降谷さんは、人より多くの情報を敏感に察知して浴びている思われます。が、それに「溺れる」状態になることがありません。降谷さんの敏感さは「非常に敏感」というより、降谷さんが処理可能な範囲内ぎりぎりの上限で敏感くらいの絶妙なものなのだと思われます。

 それは1つには、取り込み過剰にならないような適切かつ十分な取り込み方ができているから。そしてもう1つは、膨大な情報を適切に処理するリソースをお持ちだからです。

 

 降谷さんの潜入姿である安室さんは大変よくしゃべる人ですが、あれを見ると、本体の降谷さんは相当に語彙力が高く、また情報を迅速に概念に変換し、周辺の情報や記憶と結びつけて思考し、言語化できる能力が高いのではないかと予想できます。

 情報を受け取ったあと、その情報が何を表すのかを正確に同定し、思考する、ということがものすごく速くできるのです。しかもおそらく、複数の物事について同時処理できます。

 

 また、組織内で評価を受けているということは、その情報処理の質がすごく高いのだと思います。いくら情報を迅速に処理できても、その認知自体が歪んだ非現実的なものであったり、統合の仕方がおかしかったりすると、周囲には評価されません。降谷さんは、この認知を非常に的確に、先入観なく行うことができるのではないかと考えられます。また、それができるということは、記憶力が良いということでもあります。

 認知的な処理過程が迅速で質が高く、記憶力も良い。これが、降谷さんのリソースの高さということになります。もちろん、このような能力は、知能と相関関係にあります。

 これが、降谷さんの知能は相当に高いだろうと考えられる理由です。

 

 降谷さんがトリプルフェイスを使い分けるどころか、「百の顔だって演じ分けて見せる」と言っているのは、入ってくる刺激に対して自分のリソースを経済的に使う術を心得ているために出てくる台詞なのだと思われます。

 降谷さんはおそらく、思考するとき、感情をとりあえず脇に置いておくことができるタイプの人です。思考している間は感情をしっかりとコントロールしているので、「感情が思考を邪魔する」ということがなく、そのため、そこに余計なリソースを使ったり、思考に主観的なノイズが入って現実を歪めるということがないのです。

 

 キールの言う「観察力、洞察力」というのも、おそらくここから来ているものと考えられます。

 観察力というのは、「どれだけ対象を細かく見られるか」ということと、「細かく見たこと(部分)をどれだけ再統合できるか」ということに関係します。多くの刺激を受け取り、その刺激について感情を抜きにして思考を巡らせて統合し、言語化することができるので、組織から「あいつは観察力が高い」という評価が得られるのでしょう。

 また、洞察力というのは、正確で質の高い観察によって得た情報を複数突き合わせて思考し、そこに現れていないことも適切に推測するという、かなり高度な力です。降谷さんはその土台となる観察力が非常にしっかりしており、記憶力も良さそうなので、頭の中でそのような操作が迅速かつ正確に行えるのだと思われます。

 

 要は「自分が受け取る刺激の量と、自分の持つ使用可能なリソースの量のバランスが取れているか」ということが問題で、降谷さんはそのどちらもがすごく高いことによって、「情報屋」として高い評価を受けているのだと考えられます。

 

「ゼロの執行人」での狂気の運転は、この迅速かつ正確な情報処理能力と運動神経が揃うことによって、初めて可能になったものと言えるのではないでしょうか。

 

 ここまで書きながら、ちょこちょこと頭をよぎるのは、あの方々の姿ですね…。

 諸伏景光さんと赤井秀一さん…。降谷さんのクリアな思考に「感情」というノイズを必要以上に注入する男たち…。

 基本的に、思考する際に感情をそこに混ぜ込む傾向は、子どもに多いです。大人になると、その感情の割合がどんどん少なくなっていきます。

 もちろん誰でも、思考に感情は多少は混ざります。そうでないと、感情が丸ごと内に抱えられて抑圧された状態になってしまい、「気づかないところで水漏れを起こしていた水道によって、心の中が水浸しになっていた」という大変な状態になってしまうからです。

 降谷さんは、おそらく萩原さんや松田さん、伊達さんの死によって受けた感情的なダメージまでは、何とかコントロール可能だったのではないかと思います。

 ただ、自分の構造にあまりにも深く入り込んでいた景光さんの死は、降谷さんを感情的にさせるのに十分であり、その感情が思考過程に影響を与えすぎることによって、赤井さんに対して冷静な判断ができなくなっている…。

 

 こうなると、景光さんの死が降谷さんにとって、いかに衝撃的な出来事であったかという話です。その亡くなり方が非常に衝撃的なものであったことを差し引いたとしても、出来る男・降谷零の思考をここまで狂わせる景光さんという人は一体何者…?そのパーソナリティがとてもとても気になります。

 

 警察学校編を座して待ちたいと思います。

【心理】降谷さんと「死の欲動」

注:後半にて、コミック未収録分のネタバレをやや含みます!

 

死の欲動」とは、心理学の原点にして頂点・フロイトが提唱した概念です。「死の本能」と訳されたりもします。

 今回は、この「死の欲動」の考えに基づきながら、降谷さんを分析してみたいと思います。降谷さんに入るまでが長くて申し訳ないのですが、お付き合いいただけますと幸いです。

 

 まず、「そもそも『死の欲動』とは何ぞや」というお話です。ざっくり説明すると、次のようになります。

「生物はそもそも、その生命発生の原初の状態=無機物に還りたいという欲求を本能的に持っている。つまり人間は、いつも本能的に死を希求している。」

 この考えによって、人間の持っている破壊性や攻撃性を説明できる、とフロイトは言います。

 

 何といいますか、いきなりエヴァみたいな話です。

 

 ただ、フロイト先生も、ずっと昔から「死の欲動」を主張していたわけではありません。

 こんなことを言い出すまで、彼は「快楽原則」というものを信じていました。人間は「快を求め、不快を回避する」という原則のもとで生きているのだと考えていたのです。

「快楽原則に従って生きれば、生きるために必要とされるエネルギーは安定するはず。だからこれをみんな目指してる生きてるでしょ?」という、単純といえば単純な原則です。

 ところが第一次世界大戦というヨーロッパを巻き込んだ泥沼の近代戦を目の当たりにし、フロイトのこの考えは大きく揺らぎます。「あれ、人間は快楽を求め不快を回避して生きているはずなのに…。なんで好き好んで、あんな超絶に不快なことをしてるの?」という疑問を抱くようになってしまったのです。

 

 フロイトは考え抜いた末、次のような結論を出しました。

「そうか、人間の根底にはそもそも破壊欲求があるんだ。そしてその源泉は、無機物の状態に還りたいという『死の欲動』なんだ」

 

 生物の究極の目的は無機物に還ること、即ち死である。

 これがフロイトの考える「死の欲動」です。

 

 思わず「中二病か!」と突っ込みたくなりますが、大天才・フロイトの考えだけあって、ここにはやはりものすごく深いものがあります。

 戦争という例は極端にしても、現実的に考えて、「人生は快楽原則だけで成り立っていないぞ」というのは、感覚的に誰もが理解できるのではないでしょうか。確かに、人は普段の生活の中で快を求めて生活していますが、いきなり快が手に入るわけではないこともわかっているので、手に入るまでの不快もある程度は納得して体験しています。

 また、不快だとわかっていながら、何度も不快なことを繰り返してしまうのが人間の性だというのも、大人になれば誰でも1つ2つ心当たりがあるのではないかと思います。

 

 つまり現実的に、人間の行動というのは「快楽に向かって一方向!」ではありません。

 状況によっては、「外傷的な体験を何度も強迫的に思い出してしまう」とか、「こうしたら人間関係が失敗するってわかってるのに、どうしてもそうしちゃう」とか、快楽原則と真逆のことをして生きているのです。

 

 だからフロイトは言うのです。

「それは当然だよ。だって、人間には本能的に、死への欲動が備わっているんだから」

 

 当然と言うべきか、この考え方は普段はフロイトの意見を支持している心理学者たちの中からでさえ、戸惑いや反発の声が上がるものでした。生物にはすべて種の保存本能や生存本能があり、「生きること」に向けて動いていることは現実的に間違いないように思われるからです。

 その一方で、たとえばクラインやその弟子ビオンといった高名な心理学者は、この「死の本能」という概念を継承して理論を構築しました。何と言うか、不思議な説得力と魅力のある概念ではあります。

 

 前置きが長くなりました。いよいよ降谷さん登場です。

 

 そもそもなぜ、「死の欲動」という概念と降谷さんが結びつくのか。

 降谷さんは、相当に生命力に溢れた人です。高い能力を存分に駆使してやりがいのある仕事をし、コーヒーを淹れつつ生き生きと薀蓄を語り、事件に首を突っ込んでは次々と解決に導いています。愛車でビルから飛び出すほどの元気もあります。

 そんな降谷さんと「死の欲動」をなぜ結びつけて考えたかというと、降谷さんが何度も何度も「不快なこと(※)」を強迫的に想起しているように見受けられるからです。

 

※ここから先、降谷さんの思い出が「不快なこと」であると考えているように取れるような表現をしていますが、それはあくまでフロイトの説に則った専門用語としての用法です。降谷さんの思い出を軽んじているわけでは全くないので、ご了承ください。「降谷さんが思い出すたび胸が締め付けられるようなこと=不快なこと」という表現は、あくまで心理学の用語に照らし合わせて読み解くための表現です。

 

 いちばん印象に残っているのは、病院でのお茶会の事件(本編84巻)のときに「ゼロ!」という子どもの声に降谷さんが異様なほど反応したシーンです。

 確かにストーリーの流れ上、あの反応は必要ではあるのですが、「反応しすぎじゃないですかね…」という気持ちがどうしてもあったのです。それまで完璧にトリプルフェイスを演じ続けていたのに…?と。

 その後、景光さんを巡る赤井さんとの因縁が明らかになるにつれ、降谷さんが心の中でいつも少年時代の景光さんとの思い出を反芻しているために、あの反応は起こったのだと理解できるようになりました。

 

 作中において、降谷さんには、いくつもの胸を締め付けられるような思い出があることが明らかになっています。

 それは例えば景光さんの死であり、幼少期のエレーナ先生との別れです。またゼロティの中で、身元が割れるようなものを処分しなければならない立場の人でありながら、鍵をかけて保存してある警察学校の同級生たちの写真を見ていたこともありました。きっと、ふとしたとき定期的に開いて見ているのだろうな…ということが想像されるシーンでした。

 これはフロイト的に言えば、降谷さんにとって「不快なことの想起」です。

 

 さらに同じくゼロティにおいて、降谷さんはハロちゃんという犬を飼っています。どう考えても生き物を飼うことが許されるような立場ではない降谷さんが、捨て犬だったハロを飼うことにしたのは、幼少期の自分とハロの姿を重ねたからでした(『ゼロの日常』1巻)。

 降谷さんはハロをとても可愛がって育てているようですが、それは幼かった頃の自分をハロに投影して抱きしめるような、切ない行為でもあります。これもまた、上記と同じような「不快なことの強迫的な想起」です。

 

 フロイトの説に従えば、降谷さんがこんなことをする理由は、「死の欲動があるから」ということになります。マゾヒズムというのは生命の中に根本的に備わっているものであり、その存在は「死の欲動」によって支えられている。降谷さんの「悲しくなるとわかっているのに、どうしてもしてしまう回想や行動」は、死の欲動によって支えられているということになります。

 

 またフロイトは言います。この「死の欲動」こそが、人間を破壊行動へ駆り立てるものだと。

 破壊行動というのは、他者に向けられることも、また自分自身に向けられることもあります。

 降谷さんの場合、「他者へ向けられる破壊行動」は、たとえば言わずと知れた赤井さんへの憎しみです。普段の様子から考えれば、ちょっと大丈夫かと心配になるほど我を忘れて怒りをぶつける降谷さん。観覧車の上はやめてほしい。

 また、「自分自身へ向けられる破壊行動」は、上記にも書いた悲しい思い出の強迫的な反復と固着です。

 

 上記2種類の行動を「死の欲動」というフィルターを通して見たとき、ポアロや探偵事務所で見せている安室さんの顔はもちろん、ゼロティでの降谷さんとしての顔も、いち読者としては何となく「…(ぎゅう)」となってしまうのです。

 もちろん、降谷さんが笑顔で幸せで生きているのは、ものすごく喜ばしいことです。どんな形であれ、ぜひとも降谷さんが納得できる形で幸せになっていただきたい。

 でも今の時点では、やっぱりあのほのぼのした姿は降谷零の一面でしかなく、その下には海に浮かぶ氷山のごとく、誰にも見せない巨大な塊があるように見えてしまうのです。

 

 ところで、「死の欲動」は人間の誰にも備わっているものなのに、なぜ降谷さんにだけ、これほど「死の欲動」を想起させる場面が多いのでしょう。コナンくんや赤井さんには、そんな描写はほとんどないのに…というか、コナン世界でそんな描写が際立って多いのは、降谷さんくらいです。

 

 実はフロイトは、人間の生きようという意志の存在を否定していたわけではありません。人間には、生きようとする本能、「生の欲動」というものも備わっていると考えていました。

 フロイトによると、人間の内部では、この「生の欲動」と「死の欲動」が絶えず葛藤しています。そして、普段は調和が取れているはずのこの二者の中で、「死の欲動」が大きく力を持ったとき、破壊行動が起こるのです。

 

 今、降谷さんに「死の欲動」を連想させるような描写が多いのは、降谷さんという人の中で「死の欲動」がより大きな力を持っているからだと考えられます。コナンくんや赤井さんは、きちんと2つの欲動が調整され、「生の欲動」優位の状態が保たれているから、そういった描写が必然的に少なくなるのだと思われます。

 

死の欲動」の力が大きいこと。それはつまり降谷さんが、破壊…「死」の方へ傾いているということを意味します。

 

 もちろん、降谷さんはそう簡単に死へ流れるような人ではありません。

 フロイトが言っているように、人間がたやすく「死の欲動」へと傾かないために必要なものは、高い知性や強い自我です。

 本能的な死の欲動を、知性によって抑え、攻撃性を自らの中にしっかりと内在させることにより、破壊を未然に防ぐことはできるし、実際に今、降谷さんはそのようにして生きています。使える能力はしっかり使い、本当は殺したいほど憎んでいる赤井さんのことも監視する程度にとどめ(それだって随分な行動ではありますが)、組織壊滅に向けて自覚的に行動しています。

 

 ただ、自我が少しだけ緩んだとき…たとえば仕事で疲れたとき、誰の目も気にせずひとりでいられるとき、降谷さんは「死の欲動」に引っ張られるのだと思います。

 もういない同期たちの写真を目に映しながら、「死」を思ってしまう夜もある。それは自我が緩んだときだからこそ出てくる本音であり、だからこそ自我ではコントロール不可能な「夢」という形でも出てきてしまうのだと思います。

 

 思い返せば、「ゼロの執行人」における狂気の運転の表情もそうでした。「ひえっ」と思って見ていたものですが(コナンくんもちょっと引いてましたよね…)、あれもまた、攻撃性のひとつの現れだった気がします。降谷さんの生の欲動と死の欲動が、ものすごく拮抗した力でぶつかり合う、その火花が具現化したような表情だったなあ、と。

 スタッフ様の作画力に脱帽です。

 

 組織の壊滅までは降谷さんは意地でも死なないだろうと予想していますが、その後、自我が緩んだときに彼はどうなってしまうのか。「死の欲動」と降谷さんについて考えるたびに「あああー…」となります。

 ただ、救いはある気がします。コナンくん、(降谷さんにとっては不本意かもしれませんが)赤井さん、さらに再会を果たした、景光さんのお兄さんである高明さんなど…。降谷さんは組織が壊滅したら姿を消し、ゼロとして再び孤独に生きていくような気もしますが…。

 

 いつも願っている気がしますが、どうか降谷さんの人生に幸あれ。