Hyakuyo's Box

Hyakuyo's Box

降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理】トリプルフェイス~ドラマツルギーと「沈められた」降谷零

 いつかきちんと分析したいと思っていたトリプルフェイスです。

 まだ材料が揃っていないので精神分析的な視点からは難しいのですが、今週のアニメでとうとう降谷さんと赤井さんが顔を合わせるということで、現時点での「トリプルフェイス分析」を書いておきたいと思います。

 

 ちなみにこの分析のヒントになったのは、twitterでのある方の(たぶん何気ない)呟きだったのですが、「それかー!!」っていろいろ謎が解けた部分がありました。人のお話を聞くとほんとに発見がありますね…。ありがたや。

 

 今回は社会心理学のお話です。

 

 まず、タイトルにある「ドラマツルギー」って何?という話からです。

 ご存知の方も多いと思うのですが、研究には「量的研究」と「質的研究」という分類があります。心理学で言えば、量というのは多くの方々からデータをいただいてそれを統計分析にかけるような方法、質というのは少数の方からインタビュー等を取ってそれを分析する方法です。

 

 ドラマツルギーは主に質的研究の方に関係する概念の1つです。ゴフマンという社会学者が提唱しました。

 平たく言いますと、「社会生活にはなんか演技性みたいのがあるよね」という考えを理論化したものです。

 この理論の中では、人はみんな舞台の上の演者のようなものとして捉えられます。私たちにとって社会は一つの舞台であり、人は仮面をかぶって観客の前で「社会的な役割」を演じているのです。

 ゴフマンは、「社会の中では、私たちは人に受け入れられそうな自分のイメージを作って、それを演じているよね」「そしてその役柄を演じているとき、観客(周囲の人々)に『こういう私を受け入れて』って暗黙のうちに求めてるよね」と言います。

 また、ライトの当たる表舞台が存在すれば、当然のように舞台裏も存在します。そこでは演者は仮面を外し、本来の自分自身になります。またそこは、表舞台でどのようにふるまうかをリハーサルする場所でもあります。

 さらにゴフマンを支持している研究者は言います。「表舞台の自分(人に認識されている自分)と舞台裏の自分(本当の自分)は、ぴったりと一致することはない」。

 

 

 ちなみにこの理論には、当然のように批判もあります(批判のない理論なんてないですが)。たとえば、「誠実な人は誠実な役割を演じているだけだっていうのか!?」とか、「より多くの人をだますことが社会でうまくやる秘訣だと言いたいのか!?」とかです。

(ほんとに、社会学者の方々に怒られそうな表面的かつざっくり説明なので、詳しく知りたい方はドラマツルギー関連の本をご参照ください…)

 

 前置きは以上にして、いよいよトリプルフェイスのご登場です。

 

 社会的な自己イメージは作られたものである。

 逆を言えば、「他者にどう見えるか」を操作することによって、自己イメージは如何様にも作り変えることができる。

 これをよく心得た上で、自分を見る他者の目を微細にコントロールしている。それがトリプルフェイスとしての降谷さんだと思うのです。

 

 毛利家や少年探偵団や黒の組織など、安室透/バーボンという名前で接している人たちの前で見せている顔は、降谷零が行なっているパフォーマンスです。それがあまりにも自然であるために、人々はそれが演技であることに気づかない。

 一般的な人というのは、社会という舞台の上で演技をしているとはいっても、やはり本当の自分がそこに見え隠れしてしまうものですし、それが普通です。表と裏の自分をいつでも意識して使い分けている人はいません。ほとんどの人は無意識にできる範囲でこれを行っていますし、いくら表舞台でうまくやろうとしても演じきれないことも多いので、精神的に不安定になったりお酒の力を借りたりするわけです。

 ですが、おそらく意識的に、しかも完璧にそれをやっているのが降谷さんです。虚構を本物だと信じ込ませる能力が普通ではない。

 私は以前の記事で「探偵事務所やポアロやゼロティでの降谷さんの顔は一面でしかなく、その下には海に浮かぶ氷山のごとく巨大な塊があるように見える」というようなことを書きましたが、ドラマツルギーの概念をプラスすると、水面に浮かんでいる部分はすべて、完全にコントロールされたものということになります。

(※もちろん作者の先生方は「パフォーマーとしての降谷零」を十分に理解された上で描かれていると思っています。)

 

 なぜ降谷さんにこんなことができるかというと、「日常生活には所詮は演技的な側面がある」と明晰に理解しているからではないかと思うのです。

 

 ドラマツルギーの概念で言えば、誰もが演技性を持って生活している。であれば、その演技性を最大限に生かして(というか逆手に取って)、完璧に「違う人格」で振る舞うことも可能ではないか。

 

「個人のアイデンティティは周囲からの目によって決定される」。

 ならば与えられた舞台の上から観客をコントロールすることで、本来の自分とは全く違うアイデンティティを自分の印象として相手に植え付けることも可能なはずではないか。

 

「安室さんはこういう人」「バーボンはこういう奴」

 毛利先生や蘭ちゃんやジンやウォッカなど…彼らが「自分の目で見て判断している」と思っている安室透/バーボンは、実は「降谷零によって判断させられている」ものなのではないでしょうか。

 

 そして複雑なことに、正体である「公安警察官・降谷零」という人格もまた、ドラマツルギーの考え方に従えば1つのパフォーマンスでしかありません。

 公安警察官は降谷さんにとって社会的な顔の1つです。これは、一般人の私たちが社会で生きていく上で素の自分を丸出しにせず、職業に相応しい役を無意識のうちに演じているのと一緒です。安室やバーボンを演じているときよりは立ち位置として舞台裏に近いかもしれませんが、それでも公的な立場=表舞台である以上、観客を意識したパフォーマンスであることに変わりはありません。

 

 つまり、「トリプルフェイス」の3つの顔は、すべて表舞台におけるパフォーマーとしての降谷零であり、そのどれもが本当の降谷さんではないということになります。

 

 そして何より、トリプルフェイスを演じるために自分をコントロールしているということは、同時に「他者をコントロールしている」ということでもあります。トリプルフェイスの凄さというか降谷さんの怖さは、ここにあるのではないかという気がします。

 私は何度めかの「執行人」鑑賞のとき、エンディングアニメで朝食を持ってきた降谷さんの笑顔を見て反射的にゾッとしたことがあったのですが、これはトリプルフェイスとしての降谷さんの凄みみたいなものを感覚的に受け取ったからなのかな、と今は自己分析しています。

 自分をコントロールすることはある程度誰でも可能だと思うのですが、出会う他者全員を自分が望んだ人格に見えるようにコントロールするというのはものすごくメタ的な認知を要求されますし、一緒に過ごしているとある程度は湧くはずの「情」を完璧に押し殺さなくてはならない行為だと思います。

 これはもう、降谷さんが自分の「愛情欲求」を完全に殺して任務に徹している姿だと思うのですが、彼の中にある孤独を考えたとき、そこにはまだちょっと言葉にできないものを感じます(後日分析したいと思います)。

 

 では、降谷さんの舞台裏の顔…本当の顔を、誰も見たことがないのでしょうか。

 この舞台裏での顔は、普通の人であれば家族や親しい友人には断片的にであれかなり見せてしまうものです。降谷さんの場合は…ハロ…?

 

 ハロちゃんは可愛くて賢いですが、ここでは人間に話を限定します。

 降谷さんが3つの人格を使い分けていることを知っており、かつ日常的に降谷さんと接しているのはコナンくんです。

 では、コナンくんは舞台裏の降谷さんの顔を知っているのでしょうか。

 コミックス未収録の、雪山での教会のエピソードにおいて、コナンくんが降谷さんと2人きりになったとき、組織の幹部であるラムの正体について降谷さんに聞くシーンがありました。

 降谷さんはもちろん「安室透」として教会に行っていたのですが、ラムの話題であればコナンくんは当然、安室透でもバーボンでもなく降谷さんに尋ねています。そのため、あの数コマの降谷さんは「潜入捜査官の降谷零」であったわけですが、降谷さんの表情や言葉遣いが、いつもの安室透から大きく離れることはありませんでした。コナンくんを尊重し、ヒントも与え、自分の心の中の逡巡も少し口に出しながら、やはりあれはパフォーマンスの状態であったと判断できます。

 

 では、舞台裏の顔…素の降谷零は一体どこにいるのか。

 たとえば次のようなシーンが挙げられます。

 

1、過去に深く関わるシーン

 トリプルフェイスを演じる前の姿や、当時を思い出す場面です。

 本編で言えば、景光さん・高明さん・エレーナ先生と関わる小学生や中学生(高校生?)のときの降谷さん。このときはまだ未成年ですし、後に演じる2つの人格も持っていないので、かなり素の降谷零に近いのではないかと思います。ただこのあたりは、「現在の降谷零」ではないですが…。

 現在でいえば、エレベーターの前で「ゼロ」の声に反応したとき、ゼロティの警察学校の友人の写真を見たシーンや、ハロちゃんを拾ったとき(幼少期の自分を思い出しているので)がそれに当たるかと思います。純黒で松田さんに語りかけるシーンもそうなのかな…。

 

2、景光さんを巡る赤井さんとの因縁のシーン

 景光さんの自殺後の屋上や、来葉峠で復活した赤井さんとの電話、工藤邸での赤井さんとの拳銃突きつけ合いなどは、原作者の先生が「素の降谷零」を描いている場面だと思います。純黒の殴り合いもこれに相当するように思います。

 赤井さんが最も素の降谷零を見ている…。というか、赤井さんはむしろ「安室透」を見ていないですね。降谷さんは赤井さんに会うと、反射的に自ら仮面を剥ぎ取っているような。おそるべし、赤井秀一

 

3、「ゼロの執行人」でコナンくんの協力者になってから

 実はずーっと心に引っかかっていたコナンくんの表情があります。

 正面から来たモノレールに、例の狂気の表情を浮かべて突っ込んでいく降谷さんを見てコナンくんが浮かべた、「はっとした表情」です(そのあと一気にアクセルを踏み込んで180キロオーバー)。あれはコナンくんが、安室透ではない「素顔の降谷零」を見たことに気づいたというか、「安室透と降谷零の人格の裂け目」みたいなものをあの狂気の表情から読み取ったのではないかと思っています。

 また、コナンくんを掴んで発砲し、ビルに飛び込むまでの必死さはもう、「仮面なんか被ってる場合じゃねえ!」という勢いを感じました。

 私が執行人で降谷さん沼にはまったのは、かの有名な恋国発言よりむしろこの2つのシーンだったと思いますし、実はそういう人は多いのではないかと密かに思っています。

 それほどまでに、トリプルフェイスの仮面をすべて脱ぎ捨てた降谷零は魅力的だったのですよ…。

 

 

 …こうして見ると、舞台裏の降谷零という人には、かなり感情的というかリミッターが外れているというか、やや普通ではないものを感じます。

 逆に言えば、そこまでの状況にならないと素が出てこないほど、「降谷零」の本当の人格は、彼みずからの手によって奥底に沈められているということなのかもしれません。

 

 当然ながら、人格は奥底に沈められれば沈められるほど、浮上させるのにも時間と労力を要します。解離性同一症(多重人格性障害)の方の治療に、かなり根気強さと長い時間がかかるのと似たものがある気がします。

 降谷さんの場合は自分の手で意識的に沈めているので病とは少し違いますが、それでも複雑な精神構造を持つ降谷さんのこと、すっきりと「降谷零の人格でまた統一されました!」みたいなことに果たしてなるのかどうか…。もしかしたら自覚している以上に、2つの人格が降谷さんの精神構造に深く入り込んでいる可能性というか、降谷零という人の新たな扉を開いた側面もあるのでは?と思ったりします。

 このへんは、また別の機会に考察したいと思います。

 

 いつか組織が壊滅し、安室透とバーボンの人格が消えるとき、この奥底に沈められた「降谷零」が浮かび上がってくるとして、それが降谷零という人と周囲をどう変えるのか。あるいは深く沈めたままの降谷零の深部までコナンくんや赤井さんが潜っていき、彼を引き上げることになるのか。

 それには景光さんの死がどのような形で描かれるかがかなり深く関わってくるのではと思います。原作が進んでいくのが、本当に待ち遠しいです。