Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理】降谷零は人を殺したことがあるか

 ずっと気になっていることの1つです。

 組織では「情報屋」という扱いのようですし、ウィスキートリオで行動していたときにはスナイパーが2人付いている(コナンくんの推理が正しかったとしてですが)ので、殺さないことは可能なのかもしれません…。が、スナイパーは遠距離からの射撃を専門としていると思うので、狙いにくい位置にいたり密室だったりする場所で敵に遭遇したとき、どうしても戦闘の必要性は出てくると思うのです。

 

 降谷さんは人を殺したことがあるのか。ないのか。

 どう考えるかによって、降谷さんを見る目はかなり変わるような気がします。

 なんとなく、本編の降谷さんだと殺したことがあるように見えて、ゼロティの降谷さんだとないように見えるんですが…。これは完全に私の主観ですね。

 心理学的に考察してみます。

 

『「赤井秀一」という男』という記事の中で、人は人をなかなか殺せるものではない、というグロスマンの説を引きました。しかし同時にグロスマンは、「人が人を殺すことに抵抗がなくなる訓練や要素」についても論じています。また、ブラウニングという社会学者は、ホロコーストについての研究の中で、なぜナチスの親衛隊でもない一般市民がユダヤ人の虐殺を行ったのかについて、社会心理学的な考察を述べています。

 ベトナム戦争における米軍兵士、ホロコーストにおける民間出身のドイツ人兵士…これらは特殊な事例ではなく、誰でも、状況によって人は人を殺し得るのだとブラウニングは言います。だからこそ、私たちは歴史を研究し、その要因を明らかにすることで(要因は1つではありません)二度と悲劇を繰り返さないよう肝に銘じる必要があるのだと。

 

 ブラウニングによると、人が人を殺す要因となるのは、たとえば「権威」「立場」「順応」「仲間意識(孤立化を避ける)」などです。

 権威についての心理実験で有名なのは「ミルグラムの心理実験」です。権威を持つ人が命令したり肯定したりすれば、人はその行動が道徳的かそうでないかに関わらず人に苦痛を与えてしまうという結果が出ました。

 また、立場についての実験として有名なのは「スタンフォードの監獄実験」です。何でもない一般市民が看守役と囚人役に分かれたとき、ただの役割であるにも関わらず、看守役の中に非常に囚人を迫害する人が出てきました(傷つけることを断固拒否する人もいました)。

 順応や仲間意識というのは、その場に慣れてしまうとか、一緒に過ごす人の中で孤立するのを防ぐために同じことをしてしまう、とかです。

(ごく簡単にまとめましたが、これらが本当に複雑な絡み方をしてホロコーストの悲劇が生まれたので、興味のある方はブラウニングの著作をご参照いただければと思います。)

 

 また、上記だけが「人が人を殺す理由」では決してありません。ただ、殺人は「流れの中で」起こるものであり、よほどの快楽殺人者でない限り、いきなり「人が人を理由もなく殺す」という状況は生まれにくいものだと思います。殺人には何かしらの「流れ」があります。それは実験室の中では変数として取り入れられない、とても大切な要因です。

 

 赤井さんは、上記のような要因がなくてもスナイパーとして人を殺しているように思います。

 でも赤井さんは決して残酷な人ではありません。考察した通り、赤井さんは殺害を「状況の中で必要性が生じたときにやむを得ず行う」と考えているかなと。そこにリソースを大きく割かないし、それで心のバランスが乱れるようなこともありません。

 

 では降谷さんは?

 

 最も信頼性の高い証言は、同じ組織に所属するキールの「殺しはやらない」というバーボンについての説明です。少なくともキールはバーボンが「自分は殺しはやらない」と明言し、それが組織にも認められていると認識していたのだと考えられます。

 

 また、降谷さんは非常に信念のある人です。知能も、自分の思考と行動を統制する能力もとても高い上に警察官としての信念を持っているので、グロスマンやブラウニングの言うような「最初は抵抗を示すが権威に押されたり周囲から孤立するのを避けるために人を殺す」という戦時中に一般市民に見られた心理的過程はあてはまらないだろうと思います。

 そう考えると、やはり降谷さんは人を殺した経験はないという可能性が大きいのではないかと思います。

 

 組織の面々にはそれぞれ得意分野があるように見受けられます。狙撃のような実動部隊に所属しているのがコルンやキャンティ、諜報員として動いているのがベルモット、それを総括するのがジンというふうに。きっと組織に潜入する際には、何か「自分の売りとする能力」があり、それが組織の役にたつことを証明することによって、コードネーム持ちに昇格していくのではないでしょうか。

 その中で降谷さんが潜入の際に自分の「売り」としたのが、「情報を取ってくる能力」。

 降谷さんが「情報屋」を売りにした理由の1つには、「人を殺したくないから」があるのではないでしょうか。

 

 それにしても、組織はいろいろと悪いことをしてるのに「殺しはやらない」ことが認められる組織なんだな…。分業制がしっかりしています。

 

 閑話休題

 おそらく降谷さんは実際、殺しよりも情報収集の方が得意なのだと思います。自分の最大限に活かせる能力を駆使して組織に潜入するのが、中枢に入り込むのには最も効率的です。

 ですがそれとともに、降谷さんには自覚があったのではないでしょうか。自分の精神構造には脆弱性があり、いつ終わるとも知れない長期間の潜入で殺し続けることに耐えられるほど、自分は強くないということを。

 

 PTSDは発症しやすい人としにくい人、回復しやすい人としにくい人がいます。同じ状況に置かれても、人によってまったく違うのです。

 赤井さんは「やむを得ない殺し」をしても、精神のバランスを失うほど罪悪感に引っ張られることはないのではないかと思います。

 ただ降谷さんは、おそらくPTSDを(赤井さんみたいな人に比べれば)発症する危険性が高い素因を有しています。これはもう、降谷さんがどんなに有能な人であっても仕方のないことです。先天的な要因もありますし(どのくらいの割合かは議論の分かれるところ)、乳児期の愛着形成や発達過程での環境も大きいです。降谷さんは原作や映画で見る限り、知能がすごく高い人だし、リソースも効率的に配分できるし、一見PTSDの原因となるようなストレスへの耐性はとても高い感じがします。

 が、根底のところに不安を持っているので、そこが懸念されたのではないかと思うのです。

 一般的な人に比べれば全然問題がないレベルなのだとしても、何せ潜入捜査官として世界的な規模の組織に入る際、リスクはできる限り取り除くことが求められるのではないでしょうか。

 

 単なる想像ですが、降谷さんは潜入にあたって、数種類の心理検査を受けたのではないかなーと。

 それで、「微弱ではあるが過度の状況ストレスに耐える構造に脆弱性が見られる」というような結果が出たのではないでしょうか。

 ちなみに「状況ストレス」とは、ある状況によって一時的に上がるストレスのことです。ベースとなるストレス耐性が高くても、状況によっては心理的に過負荷状態になり、抑うつが現れたりすることはあり得ます。

 おそらく降谷さんはベースとなるストレス耐性は高い(そうでなくては長期の潜入とトリプルフェイスは無理)ですが、殺人のような極端な状況ストレスに耐えるにはあまりにも自我を強く持とうとし過ぎるのではないかと。「緩めない」というか、「吐けない」というか。

 降谷さんは聡い人なので、その結果に対して「そんなことない!」と反発するのではなく、「そういう要素が少しでもあるなら、その脆弱性が曝け出されない環境にいる方が任務成功の可能性が上がる」と考え、情報屋となった側面もあるのではないかとも考えられます。

 

 そして、その脆弱性を自覚している降谷さんは、「人を殺す」ことに相当慎重になると思います。

 さらに、そこにはもちろん、「警察官として宣誓したことは、組織に潜入しても簡単に変節しない」という強い意志もあると思います。「ゼロの執行人」を見ると、むしろ、こちらの方が大きい要素かもしれません。

 とにかく降谷さんは、たとえバーボンになったとしても、人を殺さない。少なくとも、「メリットがある」程度の理由では殺さないのではないかと思います。

 

 では、「生かしておくことが非常に大きなデメリットになる」場合はどうなのでしょう。

純黒の悪夢」で降谷さんが警察病院に向かったシーンがあります。キュラソーに会う前にベルモットに連れて行かれてしまいましたが、あのときもしベルモットが登場しなかったら、降谷さんはキュラソーに何をしていたのでしょう。

 キュラソーは降谷さんがNOCであることを知っています。もしも生かしておいて、キュラソーが組織の手に奪還されてしまえば、降谷さんのNOCバレは確実です。それは日本警察の組織との接点の消滅を意味します。また、景光さんの死に報いることもできなくなってしまいます。

 それでも降谷さんは、知っている情報を洗いざらい吐かせたあと、やはり殺さなかったのではないかと私は思います。然るべき機関に身柄を預け、法の下で裁かれることを望んだのではないでしょうか。

 公安は違法捜査がお得意とのことですが、「違法である」という自覚は、遵法の精神があって初めて現れるものです。公安が何でもかんでも好きにしているわけではなく、「現行の法では対応できず、法案を通している時間もない。しかしこのままではあまりにも被害が大きすぎる」という場合にのみ、違法な作業は行われるのではないかと思います。

 そしてこの「違法な作業」の中に、殺人は含まれていないのではないかと。「人を守るのが公安」という矜持の下だからこそ、違法作業は認められるのだと思います。

 

 では、「止むを得ず殺す」という可能性はどうでしょう(ばったり敵と遭遇するとか)。降谷さんはそのような状況になったとき、人を殺すのでしょうか。

 それもやっぱり、私は殺さないのではないかと思います。「人を殺すような事態にならないように」降谷さんは慎重に行動していると思いますし、もしも顔を見られたり情報を抜いたことがバレたりしても、「殺さずに忘れさせる」ような方法をいくつか持っているのではないかと。それには暴力も含まれると思いますが、命までは取らないのではないでしょうか。

 

 原作で降谷零の顔をしてコナンと話すときも、ゼロティでの降谷さんも、基本は明るくて優しい青年です。

 もしも直接的に人を殺していたら、あんなふうには振る舞えないのではないかと思うのです。また、人を殺さずに今までやってきた、という誇りそのものが、降谷さんを明るい表情にしているのかもしれません。

 

 ですが、情報を手の上に乗せて転がすことで、間接的に人の命を失わせてしまったことはあるかもしれないと思います。

 降谷さんはそこまで読んだ上で行動し、その上で出てしまった人的な被害については、しっかり受け止めているのではないでしょうか。降谷さんは、それまでも受け止められないほど弱い人間ではないと思うのです。直接手を下すことと、結果的に出た被害というのは、ちゃんと分けて考えるべきだと理解しているのではないかと思います。

 

 直接手は下さない。でも、自分が関わったことで出たかもしれない命の犠牲は、厳粛に、自分の責任としてきっちり受け止める。

 自分の精神的な脆弱性の正確な理解と、何よりも警察官としての誇りによって、人の命を奪うことはしない。

 降谷さんはそういう決意をして、組織への潜入を続けているのかなあと思っています。

【心理】降谷さんはなぜ赤井秀一の姿になったのか③

①と②をふまえ、降谷さんが赤井さんの死亡を確かめるために、赤井さんに変装した意味を考察します。

 

 まず、誰もが疑わなかった赤井さんの死を、たった一人、降谷さんが信じなかったのは、もちろん「赤井秀一の能力を考えれば、あのような状況で死ぬのは不自然だ」という論理的な疑いもあったかと思いますし、「景光を死なせた男に復讐したい」もあるかと思います。ただ、次の理由も大きいように思うのです。

 

 それは、「赤井秀一に死なれては困る」です。

 

 なぜ困るのか。

 ①と②で考察したように、赤井さんは、降谷さんの投影の対象です。あれほど高スペックな降谷さんの、投影の対象となれるような人はそう多くありませんが、赤井さんは「降谷零の影の部分」を投影するに足る人です。

 ゼロティを見る限り、降谷さんは普段、ちょっとわざとらしいほどに、明るく優しく、余裕に満ちた青年です。が、人間誰しも影の部分(普段は人に見せない部分、悪い部分、嫌な部分)があり、光の影も含めて「1人の人間」は形成されています。

 ゼロティの作中において、降谷さんが影の部分を表に出しているのは、「警察学校の仲間の写真を見たとき」「ハロと自分の幼少期を重ねたとき」そして、「赤井秀一のことを考えたとき」です。

 赤井さんという人は、降谷さんにとって、影の部分を露わにさせる人なのです。そしてこのような側面があることで、「人間としての降谷零」ははじめて成り立ちます。

 

 ところで、心理の専門家は、「成熟した自己を持っていること」を求められます。「成熟した自己」というのは、「影の部分を消し、光の部分だけを持つ自己になること」ではありません。「影の部分も光の部分も、全部ひっくるめて自己なのだと認めること」です。ただ、ここまで行くのは容易なことではありません。心理の専門家でさえ、年長の専門家と教育分析を繰り返し、その状態に向けて努力します。

 

 降谷さんは、自分の「影」をまだ充分に自力で受け容れることができていません。もしもできていたら、ライに自分を投影する必要=ライを嫌う理由はないからです。

 つまり今、降谷さんは自分が受け容れることのできていない「影」の部分を赤井さんに投影することで、問題を外在化し、内的な心の安定を保っていると考えられます。

 もしも赤井さんが死んだら、降谷さんは投影の対象を失います。これは降谷さんにとって、本当に孤独になることを意味します。投影の対象である赤井さんがいなくなれば、降谷さんは「自分の影の部分」から目を背けることができなくなるからです。

 それは、新たな苦しみの始まりを意味します。赤井さんを失えば、降谷さんは、「自分の影を自分で引き受けなくてはならなく」なってしまいますが、親しい人々の死、そして何より景光の死に傷ついている降谷さんには、まだ「成熟した自己」を持つ余裕がありません。

 今は、問題を外在化する対象、つまり憎む対象が必要なのです。そして赤井さんは、降谷さんの周りでたった1人、降谷さんの影の部分を引き受けることができる人です。

 

 赤井秀一に死なれては困る。だから彼の死を認めるわけにはいかない。

 降谷さんは変装して歩くことにより、赤井さんが「確かに死んでいるという確証」ではなく、「生きているかもしれない可能性」を探っているように思います。

 

 ではなぜ、その過程で赤井さんの姿に変装する必要があったのか。

 

 赤井さんに「なる」ことで、降谷さんは「憎んでいる対象との同一化」をしています。それはすなわち、「自分の影との同一化」でもあります。最も憎んでいるものに自分が変装したとき、降谷さんはじっと鏡を見て、その男を責めたと思います。

 

「お前ほどの男が、なぜ景光を救えなかったのか」

 

 それは、赤井さんへの言葉であると同時に、降谷さんによる、降谷さん自身の影への言葉です。

 

 赤井秀一の中に、降谷さんは自分を投影しました。そして赤井さんが死んだと聞いたとき、自分自身が赤井秀一の姿になり、投影した影に同一化することで、自分を責め、罰した。赤井秀一を失ったかもしれない当時、そうすることでしか、降谷さんは景光さんの死を受け止めることができなかったのだと思います。

 降谷零の姿で、降谷零に対して直接「なぜ救えなかった」と問いかけ続けることは、あまりにも降谷さんの心を破壊するからです。

 降谷さんは、まだ生きていなくてはなりません。生き延びて、組織壊滅という目的を達するため、警察官として日本を守るためには、降谷さんはまだ壊れるわけにはいかなかったのだと思います。赤井秀一さえも決定的に失ってしまったのだと認めることは、そのときの降谷さんにとって耐え難いことだったのではないでしょうか。

 

 だからこそ、自分が赤井さんの姿になり、その姿に向かって投影を続けるしかなかった。そこに、降谷零という男の、強さと孤独と寂しさが現れています。

 

 さらに、降谷さんはその姿を、人々の目に晒します。

 これによって、降谷さんは仮想の「死」を経験していたのではないかと思います。

 

赤井秀一は死んだ」と思っている人々の前にあって、赤井秀一の姿で歩くことは、死体を晒すも同然の行為です。「あなたは死んだはず」という視線を受け、降谷さんは死に接近します。それは降谷さんにとって、死んでしまった親友・景光さんと、投影の対象であった赤井さんに接近する行為でもあります。

 

 おそらく、赤井さんが死んだと聞かされたあとの降谷さんは、相当に「自分の死」を願っていたのではないでしょうか。「任務遂行のため・志半ばで死んだ人たちに報いるためには断じて死ねない」と、「死にたい」の間で激しく揺れる降谷さんの、死へ傾いたときの姿が、あの「火傷赤井」の姿だったのではないかとも思うのです。

 

 降谷さんが自分の影を、赤井さんに投影せずに受け容れられるようになるとき。

 そのとき降谷さんははじめて、赤井秀一という人と、本当の意味で「出会う」のだと思います。

 そしてそのときが、景光さんという降谷さんにとって唯一無二の人の生と死がまるごと、降谷さんの中でしっかりと抱きしめられるときなのではないでしょうか。

【心理】降谷さんはなぜ赤井秀一の姿になったのか②

 「火傷赤井」さんの件の続きです。

 前回、 降谷さんの謎の変装には、次の2つの要素が関わっているということを書きました。

 

①降谷さんが赤井さんを(バーボンがライを)嫌っていたこと。

景光さんの件。

 

 今回は、②の方を詳しく考察します。

 

 景光さんの死は、降谷さんという自我構造に脆弱性のある人の、その脆弱な部分に決定的にヒットしたと思います。景光くんとチャムシップを形成することで満たされ、守られることを知ったゼロくんにとって、景光さんは特別の上にも特別な存在だからです。

 

 警察学校の仲間の死と景光さんの死が決定的に違うのは、降谷さんの自我構造に、どれだけ深く関わっているかということです。年齢的に、ある程度の構造化がなされてから出会った(であろう)警察学校の仲間に比べ、景光さんはあまりにも、降谷零という人の構造に深く、強く関わりすぎていました。

 

 景光さんを失ったとき、降谷さんは20代も半ば。ある程度の構造化が済んでいたので、心が決定的に壊れることはありませんでした。愛着の対象としてきた両親や親しい友人が亡くなっても、それを乗り越えて生きている人は、世の中にたくさんいます。大切な人の死に直面しても決定的に心が壊れないのは、対象によって自分の心がしっかりと守られているという事実は、たとえ対象が亡くなっても消えるものではないからです。

 

 でも降谷さんは、景光さんの死について、今は受け容れられていないようです。それはなぜなのでしょう。

 まず、景光さんの死が自殺であること。潜入捜査中の殉職であること。この2点は、一般的な病死や老衰よりも受け容れが難しい要素です。ただこれも、ストレス耐性が高く、潜入捜査官としての景光さんの仕事に対する姿勢や覚悟を理解していたであろう降谷さんにとって、受け容れるのがどうしても難しいという要素としては弱いです。少なくとも、数年も引っ張る要素としては。

 

 最も禍根を残したのは、やはり「ライという嫌い抜いている存在が、その場にいたこと」だと思います。

 いただけではなく、その男の拳銃により親友が自分の胸を、そして降谷さんたちのデータが入っているスマホを撃ち抜いてすらいるのです。

 

 ①で考察したように、降谷さんはライに自分を投影しています。「ライが嫌い」は、自分の中の「影の部分」をライに投影しているから生じる感情だと思われます。

 降谷さんは自決した景光さんの前に立つライを見たとき、燃えるような怒りや、立ち上がれないような空虚感を感じたと思います。

 目の前にあるのは、ただの知り合いが親友の死を導いたというだけのシーンではありません。自分が嫌悪している自分(=影)をライに投影している降谷さんにとって、その光景は、「自分の影が、親友の死を導いた」というシーンでもあるからです。

 

 降谷さんは、このあとますますライ(赤井)に対して厳しい態度を取ることになります。緊急事態の最中に観覧車の上で殴り合いをするほどに。あそこにコナンくんがいて、本当によかった。

 

 降谷さんは本質的には、赤井さんを責め、殴っているのではないのだと思います。降谷さんが本当に責め、殴っている対象は、脆弱な自分です。「殺したいほど憎んでいる男」というのは、おそらく自分のことです。

 

 降谷さんが階段を駆け上がる足音が景光に誤解を与え、引き金を引かせた。そういう理解の仕方もありますが、もしもあの足音が降谷さんのものだとわかっていても、景光さんは引き金を引いたかもしれないとも思います。

 日本の潜入捜査官である景光さんは、目的を同じくするアメリカの潜入捜査官である赤井さんを、危険に晒すわけにはいかないからです。被害を最小限に抑えるには、自分が死ぬしかない。景光さんは命のかかった局面にあっても、冷静にその選択ができるからこそ潜入捜査官であったのではないかと思いますし、降谷さんも景光さんがそういう男であることは知っていたのではないでしょうか。

 

 そして何が真実なのであれ、降谷さんは、景光さんを死に導いたのは自分だという感覚を、今も無意識の中で抱いているのではないかと思います。繰り返しになりますが、投影を自覚しているであろう降谷さんにとって、ライという男は、ライであると同時に、「降谷零の影」という存在だからです。

 

 この2点をふまえ、本題の「なぜ降谷さんは赤井さんの姿になったのか」を考察していきたいと思います。

【心理】降谷さんはなぜ赤井秀一の姿になったのか①

 いわゆる「火傷赤井」さんの件です。

 

 メタ的に見れば、読者に「赤井秀一は生きていた!?」という謎を深める作用をする行動だったと思うのですが、それを差し引いて考えても、この行動が降谷さんの赤井さんに対するたいへん複雑な心情を端的に現しているようにも思うのです。

 そのへんを、心理学的に考察してみます。

 

「自分ではないものになる」というのは、遊びとしてもよく見られる行動です。おままごととか。

 ただ、「姿形まで他者に寄せて、その人になりきる」というのは、やや遊びの範囲を逸脱しています。

 私は、コスプレをする方々は、それによって「癒されている」のだと思っています。自分が好きだと思ったもの、魅力的だと思ったものに同一化することで、日常生活に疲れて不安定になった心の構造を強化というか修繕する作用があるのではないかと。

 

 クラインという素晴らしい心理学者の理論なのですが、赤ちゃんはお母さんを「良いお母さん」と「悪いお母さん」に分裂させます。おっぱいをくれるのは良いお母さんで、おむつかぶれでヒリヒリさせるのは悪いお母さん、みたいな感じです。

 そして、「良いお母さん」を自分の中に取り込む=同一化することによって、自分を「良いもの」として肯定し、心を形成していくのです。(これはとても、とても雑な説明なので、詳しく知りたい方はクラインの著書をご参照ください…。)

 

 このとき赤ちゃんは、お母さんを「理想化」したりします。良いお母さんの中でも、「ものすごく良いお母さん」です。この「ものすごく良いお母さん」と同一化することによって、赤ちゃんは、自分のまだ壊れやすい自己感をさらに強化、肯定的なものにしていくのです。

 

 このようなメカニズムは、赤ちゃんに限ったことではなく、大人になってからも作用が続いています。

 ちなみに、理想化は上のような性質を持っているために、「理想化していた対象」が自分の理想とちょっと外れたことをすると、主体はすごく怒るのですね…。「だまされた!」みたいな。

 それは、「せっかく理想的なものと同一化して自分を強化、肯定しようとしていたのに、これじゃあできなくなっちゃうじゃないか!」という怒りです。理不尽ですが、同時にすごくよくわかります。

 

 では、降谷さんは赤井さんを「理想化」し、同一化していたのでしょうか?

 理想化ではない、というのが私の結論です。降谷さんは赤井さんという超人みたいな人を理想化しなくても、自分が充分に超人であることを理解しているように見受けられるからです。これは変な自己愛ではなく、他者と比較しての冷静な分析ですね。はい、降谷さん、あなたの自己評価は正しいです。あなたも超人です。

 

 ではなぜ、降谷さんは謎の変装を行なったのか。それには、2つの要素が関わっていると思います。

①降谷さんが赤井さんを(バーボンがライを)嫌っていたこと。

景光さんの件。

 

 この記事では、①について考察していきます。

 

 降谷さんは組織時代から、ライ(赤井さん)が嫌いだった。仲が悪かった。

 前の記事でも書いたように、赤井さんは愛着による自己感がしっかりしているので、誰かを「すごく嫌い」になることがないように思います。人は人、自分は自分。環境によって揺れ動くことがありません。

 

 ですが、降谷さんはそうではありません。降谷さんの根底には「不安」があります。自分の存在を常に疑っていた幼少期を持つ(と私は思っている)降谷さんにとって、他人というのは良くも悪くも重要なファクターです。バーボンと安室さんがすごくよく喋るのは、降谷さんが無意識の中に抑圧している「人とコミュニケーションを取りたい」が滲み出ちゃっているのでは…と思わなくもないです。

 特に降谷さんには、景光さんや警察学校の友だちに助けられ、努力してここまで来たという意識的な自負があると思われます。そこへ、ひょっこりと赤井さんが登場します。降谷さんはおそらく、身体的・感覚的にキャッチするはず。赤井さんから醸し出される安定した自信。安心感。それゆえの余裕。

 これは降谷さんのコンプレックスを刺激します。自分と同等、あるいはそれ以上の能力を持っている男が、自分にないものすら持っている。しかもそれは、努力によって手に入れられるものではない。取り返しのつかない時間の中に、それはあるのです。何より、それはたぶん降谷さんが、すごく欲しかったもの。

 バーボンとライがいつ出会ったかは不明ですが、この頃には降谷さんは、少なくともエレーナさんと萩原さんの死は認識していたと思います。自分が自分を受け入れるための愛着を形成してくれた大切な2人が亡くなっている、という絶望の事実と直面している中で現れた、何もかもを持っている男。

 

 降谷さんの「嫌い」は、「羨望」と「投影」だと思います。

 羨望や嫉妬は、「自分が欲しいものを人が持っている」ことで生じます。それゆえ、奪ったり、引き摺り下ろしたりしたくなる。この要素はあると思います。

 ただ、降谷さんにはそれだけではない複雑な感情がこれに付随します。それが「投影」です。

 

「投影」というのは、クラインの理論で言えば、自我構造を守るために分離した「悪い自分」を他者が持っていることにし、その人を「悪いやつだ」と思うことで自分を守るという作用です。ただし、外在化(他者のものだと考えること)したからといって、その「悪い自分」の部分が自分の中から消えるわけではないので、これは一時凌ぎの方略にしかなりません。その後、成長とともに自我構造はしっかりしていけば、この「悪い自分」を自分の中に受け容れても大丈夫という状態になり、投影は収束します。

 

 おそらく同じ組織にいても、スコッチ(景光さん)はそれほどライに嫌悪感を持たなかったのではないかと思います。なぜなら景光さんは、赤井さんと同じように愛着形成によって自我がきちんと構造化されているからです。ライによって奪われるものが何もないので、一緒にいることは苦痛ではないはず。

 ただ、降谷さんは違います。ライと一緒にいることで、コンプレックスを刺激される、プラス、自分の中に生じる、認めたくない「羨望という嫌な感情」を常に感じなくてはなりません。

 降谷さんは、それをライに投影します。すなわち、「お前なんか嫌い」です。

 しかしてその実体は、「俺のことが嫌い」です。正確に言えば、「愛されるべき人に愛されなかった、そういう自分が嫌い」です。

 

 おそらく降谷さんは、「ライが嫌い」である自分に苦しんだのではないでしょうか。それがライのせいではなく、自分の中の嫌な部分を投影している感情であり、原因は他ならぬ自分自身にあるということを、聡明な(きっと心理学もかじっているであろう)降谷さんは気づいていたと思うからです。

 これによって、降谷さんの誇りはますます傷つきます。

 

 一方で赤井さんはたぶん、ライだったときから、どうして降谷さん(バーボン)が自分のことを嫌うのか理解できなかったのではないでしょうか。その上で、別に嫌われても、仕事さえちゃんとしてくれれば文句はない、という方略をバーボンに対して取っていたと思います。それがまた、降谷さんを苛立たせる。

 

 この嫌悪感がその後、降谷さんが赤井秀一に変装することになる上で、重要な役割を果たしたと思います。

 続きは②にて。

【心理】「赤井秀一」という男

 たまに思います。沖矢昴とは何者なのか。

 赤井さんですね。赤井さんです。が、あまりにも…誰?(ベルモット風)

 

 ふしぎ沖矢さんはさておき、赤井秀一という人は、ものすごく魅力的な人物として描かれています。頭脳も肉体も、ハイスペックだらけのコナン界で最高位に君臨しています。

 このあと、本編で黒の組織殲滅作戦が組まれた際には、最終決戦の場に、コナンくんと赤井さんは絶対にいるのだろうなあ、と思われます。できれば降谷さんにもその場にいてほしいですが、彼は立場的に、その直前と最終決戦をつなぐキーパーソンという感じもします。

 

 その赤井さんが、生存を隠すために、あの謎人格・沖矢昴になっている…。よくわかりません。沖矢さんは、本当によくわからない方です。

 私は沖矢昴のことを考えると、お腹の中がくすぐったくなります。

 

 閑話休題

 赤井秀一というのは、いったいどういう人なのでしょうか。

 

 赤井さんの本職は、FBIの職員です。そしてスナイパー。

 スナイパーというからには、人を殺めたことがあるはずです。

 

 米花町は犯罪シティなので感覚が麻痺しますが、そもそも人は人をそう簡単に殺せるものではありません。これは技術的な問題ではなく心理的な問題で、「抵抗」があるのです。

 元米国陸軍中佐であり心理学者でもあるグロスマンによると、第二次世界大戦において、相手に向けて発砲できたライフル銃兵は全体の1~2割です。8割の兵士は、もにょもにょと弾を込める振りなどをしてその場をごまかし切り抜けており、発砲していないのです。これはアメリカ兵に限った傾向ではないと考えられています。人は人に対して発砲するとき、ものすごく抵抗を感じるのです。

 実際、発砲率が9割と言われるベトナム戦争において、帰還兵の中に凄まじい数のPTSD罹患者が出たのは、よく知られるところです。

 

 ところが、全兵士中の1%くらいの割合で、「躊躇なく発砲でき、精神的な外傷を負わない」人も存在するそうです。(こういう方々について、サド気質があるとかサイコパスだとか面白おかしく言われることもありますが、一概にそうとも言えません。)

 赤井さんは名手と言われるスナイパーですので、おそらくこれらの方々に近い性質を持っていると考えられます。

 ただ、人を殺めるときには、物理的に距離が近く、より生々しい感触があるほど抵抗が強まるという研究結果がありますので、遠距離からの射撃を得意とする赤井さんには、心理的な負担は最大限かかっていないはずです。また、赤井さんが撃つ相手は犯罪者に限られている筈なので、その点でも心理的負担は少ないでしょう。

 ですが、どんなに正義が自分の方にあろうとも、発砲した弾が相手の肌を掠めた程度でも、精神的ストレスを莫大に抱える人はいます。やはり赤井さんはプロのスナイパーとしての資質を有しているのだと思います。

 

 ここから、赤井さんという人を3つの観点から心理学的に考察してみました。

 

1、愛着形成

 精神のバランスを崩さずに優秀なスナイパーとして活躍する赤井さん。

 心的外傷と愛着には密接な関係があり、同じように過酷な体験をしても、幼少期の愛着形成がきちんとなされている人はPTSDやうつを発症しづらいという研究結果があります。また、赤井さんには過度の罪悪感にとらわれたり、自己効力感が低下している様子はありません。ご両親によって、かなりきちんと愛着を形成されているので、極端にマイナスの方向へは精神が振れないのだと思います。

 

 弟妹である秀吉さんも真純ちゃんも、ちゃんと愛情を受けて育っている感じがあります。赤井さんはそういうご家庭の長男ですので、それはもうきちんと愛着形成がなされ、それゆえに、ちょっとやそっとでは壊れない自我構造を確立していると予想されます。しかも知能や身体能力が高く、不安定な時期である思春期においても、構造を壊されるような経験(いじめの被害者になるとか)がなさそうです。

 

 なので赤井さんは、かなりきちんと人を愛せる人なのだと思います。逆に、愛されることにも慣れています。潜入前に赤井さんがジョディさんを振ったとき、私はジョディさんの過去を鑑みて「あんた何てことを!」と思ったものですが、「愛せないと思えば別れる」というのは、相手に対して非常に誠実です。愛したり愛されたりすることを過度なものとして扱わないので、ああいうことができるのだと思います。

 

 逆に、つらい経験をしているジョディさんや明美さんが赤井さんに魅かれた理由も、ここにあるのかもしれません。あんな冷たそうな男なのに、安心感があるのだと思います。言語化や数値化が不可能な、「包まれている」と思わせてくれるような安心感。包容力。それはもう、愛着のなせる技です。

 ずるい。冷たいのに安心感を抱かせる男。ずるい。

 

 ただ、ちょっと隙があるとすれば、失踪した父親を探すためにアメリカに行くことに、ややエディプスコンプレックス的なものも感じたりしてはいます。赤井さんにとって、思春期に突然失われた務武さんは、未だに「超えられたという実感のない壁」なのかなと。

 適切な愛着の結果、父親との人格的な分離はきちんと済んでいると考えられますが、それでも、「父親失踪の真実にたどり着くことで、はじめて父親を超える」という、心理学でいう「父親殺し」を赤井さんはしているのかもしれません。男の子は、父親殺しをしてはじめて、成熟したひとりの男性になる、らしいです。

 赤井さんが父親と再会する(生きているとすれば)シーンが楽しみです。

 

 

2:使用可能なリソースの量と効率性

 赤井さんは非常に効率的というか、無駄だと判断したことにリソースを割かない人なのではないかと思います。

 初対面の幼い妹に笑顔を見せもせず、ジョディさんには「2人の女を同時に愛せるほど器用じゃないんでね」などと宣います。どちらもやろうと思えばできたのではと思うのですが、「そこにリソースを割く必要はない」と判断したのではないでしょうか。ひとつひとつの行動がしっかり統制されており、判断の基準が非常に明確です。

 

 これは、自我構造がものすごくしっかりした、しかも知能の高い人の行動特徴です。そもそもいくつかの人格を意識的に使い分ける、ということ自体が、持っているリソースが多く、用途も広いという証拠です。

 人はいくら持っているリソースが多くても、それが使用可能な状態でなくては意味がありません。問題はリソースの絶対量ではなく、使用可能なリソース量なのです。さらに、使用可能なリソースの量と知能には正の相関関係が存在します。また、使用可能なリソースが多ければ多いほど、ストレス耐性や自分自身をコントロールする力も高まります。

 つまり赤井さんは、知能が高く、比例して使用可能なリソースが多い。その上、そのリソースをとても効率的に配分するので、ちょっと冷たいんじゃないかと思うほど、「頭が切れる」人に見えるのではないかと思われます。

 

 降谷さんも本来、この力はものすごく高いと思うのですが、自我構造にやや脆弱性がある上、今は「親友の喪の作業」にかなり多くのリソースを持っていかれてしまっているので、このへんが赤井さんに勝てない理由のようにも思います。

 

 

3:共感のはたらきが薄い

 赤井さんという方は、共感のはたらきが薄いと思われます。共感性羞恥とか、絶対に感じない…。

 そもそも、共感が平均以上にはたらいていたら、人の痛みを感じ取ってしまうので、スナイパーとしては務まらないはずです。優秀なスナイパーであるということそのものが、赤井さんの共感力が薄いことを物語っています。

 

 いわゆる「緋色シリーズ」のクライマックスに、赤井さんと降谷さんの電話のシーンがあります。そこで赤井さんはスコッチのことについて、「今でも悪かったと思っている」と降谷さんに謝罪しました。はあ?ってなる降谷さん。読者(私)もものすごくぎょっとしました。「いまそれ言う!?煽ってるの!?」

 

 でも、赤井さんにそんな気持ちがまったくないことは、その表情からわかります。赤井さんは本気で「悪かった」と思っており、それを伝えることもまた「しなくてはならないこと」なのだと思います。

 赤井さんという方は内省能力が高く、自分のミスはミスとして責任転嫁することも過剰な罪悪感を持つこともなく受け止め、認めます。

 赤井さんのようなタイプの方は、悪いと思っていないことを謝りません。自分が表面上でも謝ることで人間関係を円滑にしようとか、相手の気持ちを軽くしてあげようとか、思わないです。共感の力が過剰に働いてしまう人は、人にいろいろ気を回し、思ってもいないことを言ってしまったりするものですが、赤井さんはそのへんゼロです。

 

 が、共感のはたらきが弱いため、あの状況でそれを聞いた降谷さんが、その言葉をどう受け止めるのか、ということは全然考えません。あの時点で、赤井さんは、スコッチと降谷さんが日本警察の人であり、おそらく繋がりがあったであろうことを察知しているにもかかわらず、そして今まさに、降谷さんを出し抜いてプライドを傷つけたばかりだというのにもかかわらず、謝罪するのです。なんでいま!?

 

 おそらくあの謝罪は、降谷さんに許しを乞う謝罪ではなく、「責任の所在をはっきりさせる」という側面が、赤井さんの中では強かったのではないでしょうか。だから、降谷さんがどう受け取ろうと、赤井さんはスコッチに拳銃を奪われたことが彼の自殺の直接の原因だと認識しており、「あれは俺のミスだ」を謝罪というかたちで伝えたのかな、と思います。

 

 言い換えれば、赤井さんは、とてもフェアな人であるということもできます。相手を必要以上に慮らないので、「人の感情ではなくルールに則って行動する」ことができます。日本で育っていないしな…。日本では、「感情を重視すること」そのものがルールになることが多々あります。

 赤井さんは、「犯罪者がどういう人間か」で動くのではなく、「犯罪に対して自分はどのように動くべきか」で方略を決めているのだと思います。犯罪の質や背景は問わず、「犯罪である」ということそのものを「ルール違反」として認識し、速やかに行動を決定しているのではないでしょうか。

 これは、ものすごくフェアな方法です。相手がどんな人かによって対応を変えるというのは、どうしても主観的になり、それは一面アンフェアを生むことになるからです。

 

 人も自分も適切に愛することができる力があり、持っているリソースがすごく多く、共感は全然はたらかないがフェアな男。冷たいのに、安心感を与える男。それが赤井秀一という男…。

 

 ただ、明美さんのこと。そしてスコッチのこと。そこに関しては、赤井さんは片をつけられていないんだな…。失敗したことのない男にとって、この2つは痛恨のミスだったのだと思います。赤井さんはスナイパーとして人を殺しますが、決して人の命を軽んじる人ではないのだと思います。愛を知っている男なので。

 しかも、赤井さんにとってこの2つのミスは、哀ちゃんや降谷さんが許してくれるかどうかということは、自身の解決に全然関係ないのだと思われます。「許してくれたら救われる」は人の心への依存です。赤井さんは良くも悪くも依存せず生きていける力を持った人なので、そういう解決の仕方はしないと思います。

 

 結局、背負っていくのかな…。2人の命を失わせてしまったこと、それによって彼らを大切に思っていた人たちに、一生消えない傷を負わせたこと…。

 そしてまた、それを背負って生きていけるだけの力を持った男。それが赤井秀一

【心理・所感】降谷さんにとって愛とは何か〜「愛の力は偉大だな」

「愛の力は偉大だな」。

「ゼロの執行人」の中で、私が最も「降谷零という人間」を感じた台詞がこれでした。

 

 同時に、「ああ、ゼロの執行人の裏テーマは、愛だったのか」とも。

 

 もしもこの台詞がなかったなら、私は降谷さんを「公共の利益を守るため、やむなく鬼に徹してコナンを利用した公安警察官(裏では罪悪感に歯ぎしりして耐えているかもしれない)」などとも想像したと思います。

 が、この台詞とさわやかな口調、表情を見て、「あ、そんな感じではないな」と思いました。ちょっと降谷さんは愛に対する認識が普通ではないな、単なる「酸いも甘いもかみ分けた大人が子どもをからかっている」だけでは済まないものがあるな、と。

 

 だってまず何よりも、降谷さんは確信犯だったもの。目的は最初から「コナンくんの推理力と行動力」で、それを引き出すために、コナンくんの蘭ちゃんに対する愛を利用したんだもの。

 

 つまり降谷さんは最初から知っていたじゃない。「愛の力は偉大だ」ということを。

 

 「コナンくんが何のためなら本気になるのか」ということも、「人間を動かす最大の情動は怒りである」ということも、降谷さんは知っていた。(サイヤ人超サイヤ人になるのに必要なのも「怒り」でしたね…。)

 コナンくんは、愛ゆえに本気になるし、愛ゆえに怒る。「それとも、蘭ねえちゃんのためかな?」などと、コナンくんの怒りの炎に、酸素をバッタバッタと供給している姿は、見ているこっちが「あああああー!」となりました。

 

 降谷さんは、別にコナンくんに「愛の力は偉大だな」などと言う必要はなかったのです。目的はもう達せられ、あとは一か八かの力技勝負で、カプセルの軌道を変えられるかどうかだけなのです。

 が、この時点で、コナンくんが解けていない謎がたったひとつあります。「どうして安室さんは、小五郎のおじさんを犯人に仕立て上げたの?」警視庁の屋上で、降谷さんはコナンくんが、まだこの謎を解いていないこと(降谷さんの真意に気づいていないこと)を察知したと思います。

 そう思うと、「愛の力は偉大だな」というこの台詞は、まだコナンくんが言葉にしていない最後の謎への、最大のヒントだったのではないかとも思います。

 が、コナンくんはこの台詞に、「え」と呆れた表情で応えるのみです。

 コナンくん(新一くん)は、まだ子どもなのだなあ、と思います。もしももう少し大人だったなら、きっと降谷さんからこの台詞が出た時点で、ピンとくるものがあったことでしょう。「この人の目的は最初から俺で、そのために俺の蘭に対する愛を利用したのか?」と。

 

 気づくか気づかないかわからないけど、言う。愛という言葉を口に出す。

 ここで「愛」という単語が出てくるあたり、降谷さんがそれをかなりはっきりしたものとして認知していることがわかります。

 

 コナンくんと蘭ちゃん。小五郎さんと英理さん。日下部さんと羽場さん。境子先生と羽場さん…。これほど、愛というものが複雑に交錯したコナン作品も珍しいのではないでしょうか。

 それなのに、メインキャスト降谷さんの、特定の人物に対する愛は描かれません。むしろ、愛を利用したものとして、降谷さんは存在します。自分を悪者にしてコナンくんの本気を引き出すの…すごく何というか、「自分を大切にしてない感」が出ています。承認欲求がマイナス方向に振り切れそうです。

 

 降谷さんに恐ろしいほどないのは、「承認欲求」です。あれほど有能な人であれば、自分の能力を周囲に認められたい欲求は、普通はあるはずです。まして、根底に不安や無力感を抱えて生きている降谷さんは、本来なら人に認められたいはずなのです。そうすることで、安定したいはずなのです。本来なら。

 が、降谷さんには、「我の為すこと我のみぞ知る」とでもいうような、自己完結の力を感じます。自己顕示欲がない!自己顕示欲の強い潜入捜査官なんていないとは思うけど、あまりにも…!

 

 承認欲求や自己顕示欲は当然ながら、「人に認められたい」「人に愛されたい」という気持ちに由来します。心理的な成熟度が高まれば高まるほど、承認欲求や自己顕示欲は低下しますが、それでも完全に「なくなる」ということはありません。むしろ、「成熟した心理」というのは、相手に対して適度な要求ができる能力でもあります。人には自尊心があり、それをある程度保つには、他者からの承認が必要だからです。

 そのため、相手にまったく要求しない(無視されたり悪く思われたりして構わない)というのは、自尊心があまりにも低いことを表すという一面があります。もしも降谷さんが修行僧か何かで、解脱を目指しているとかであれば話は別なのですが…そういうことではない…。

 

 そうすると、導き出される結論は悲しいものになります。

 

 ああ、この方は、愛の力を信じているけれど、もう自分が主体となって愛情を受け取る、与えるという世界からは抜けた人なんだ。

「愛は失うものだとわかったから、もうその世界から抜ける」という選択をすることで、自我を防衛している気配がする。それが最も合理的な解決だと考えて、明晰に整理しきってしまっている気がする。

 

 ただ、降谷さんには、自尊心があります。 

 その自尊心を支えているものは、誇りであり、「命に代えても守らなくてはならないものがある」ことです。「誇る」も「守る」も、目的語が必要な言葉です。いったい何を?

 守ろうとしているのは、コナンくんと蘭ちゃんに代表されるような、市井の人々の間で日々交わされている「愛」だと思います。

 そして誇りは、それを守るため、完璧であろうと力を尽くしてきた自分自身なのではないでしょうか。

 降谷さんは、愛に関して主体にはなりません。でも、それを交わし合う人々を、守りたいと思っているのだと思います。とても強く。もう自分が手にいれることを諦めたものを、まだ手に入れられる人がいる。そういう人たちを守ることができる力が自分にあるなら、それを惜しみなく使う。

 そういう覚悟をしているのかな、と。それが、降谷さんにとっての、愛というものへの関わり方なのかな、と。

 

「愛の力は偉大だな」。

 コナンくんにこの言葉を言うとき、降谷さんはコナンくんを、「愛を知っている人」と認識して伝えています。自分は持っていない愛を両手いっぱいに抱えて戦っているコナンくんに対し、平気な顔でそれを言う降谷さんの表情にも口調にも、羨望や嫉妬はひとかけらもありません。だからこそコナンくんは、その言葉に秘められた降谷さんの根底にあるものに気づけないのです。単なる大人からの茶化し、からかいとしてその言葉を認識しています。

 ここに、両親からの愛情を一身に受けて育ったコナンくん(新一くん)と、同級生のお母さんに母性的な自己対象を求めるしかなかった降谷さんの悲しいほどの温度差があります。コナンくんと降谷さんは、別の川に見えます。流れがたまに近づくことはあっても、交わってひとつにはなりません。このシーンでも、降谷さんはコナンくんにわかってもらおうなどとは欠片も思っていないし、コナンくんも気づきません。

 

 ところで、なぜ降谷さんは、これほど「愛」というものの偉大さを知っていながら、コナンくんの愛を利用することに躊躇がなかったのか。

 それはおそらく、「自分がすることは、コナンくんや蘭ちゃんを決定的に壊すことにはならない」と確信していたからではないでしょうか。コナンくんや蘭ちゃんが、「愛情」というシールドに守られていることを、降谷さんは安室透として近くで見ていて知っています。たとえ一時は泣いたとしても、必ず彼らは回復する。なぜなら彼らの心は、そう簡単に壊れないよう、幼少期からの家族の愛でしっかり守られているからです。

 降谷さんがコナンくんの正体に気づいているかは不明ですが、少なくともコナンくんの蘭ちゃんに対する愛情が、幼い頃の自分がエレーナさんに対して抱いていたような悲しい切実さを持っていないことは、感じていたと思います。コナンくんの愛は、体が小さくなり、正体を隠していてすら、まっすぐで澄んだ愛です。優作さんと有希子さんの新一くんに対する愛が、たとえ新一くんが小さくなってしまっても変わらなかったように。

 

 ただしコナンくんと蘭ちゃんを決定的に傷つけないためには、どうしてもコナンくんを傷つけずに蘭ちゃんの元に返す必要があります。死んだら終わり。それは降谷さんがいちばんよくわかっていることです。それが、降谷さんがコナンくんをひっ掴んでビルに飛び込んだ、あのシーンの必死さに現れているように思います。降谷さんが流した血は、コナンくんへの贖罪の分というか、支払った代償という役割を果たしていることになるでしょうか(自らカタをつけた…)。

 

 が、結果的に降谷さんも命を落とすことはなかったところに、「名探偵コナン」という作品自体の救いの大きさがあるように思います。降谷さんもまた、たとえ血を流しても救われることができるのではないでしょうか。それがどんなかたちの救いになるかはわかりませんが、たぶん、コナンくんたちの持つ愛によって。

 

 愛の力は偉大だな…!!

【心理】降谷零の精神構造②景光・チャムシップ

「高明にいちゃん!ボク、東京で友達ができたよ!アダ名がゼロっていうんだ、かっこいいでしょ」

 あの諸伏高明氏に、弟から「にいちゃん」とフランクに呼ばれていた時代があったことにもびっくりですが(深窓の令息ひとりっこ系かと)、その子が…降谷さんと…そうですか…。

 

 諸伏家のご兄弟のご両親が、いつどのように亡くなったのか(そもそも同時だったのか)は不明ですが、景光さんからは、愛されて育った感じがします。景光さんの出番はまだ少ないので予想でしかないのですが、本編とゼロティーに登場した子ども時代の屈託のない笑顔から、両親と年齢の離れた兄に愛され、愛着形成は適切になされたのだと推察します。

 

 ①で考察したように、愛着形成が適切になされておらず、暴力で不安や無力感を抑圧する子どもだったチビ降谷さんと景光くんが、どのようなきっかけで友情を持つに至ったのかは、描かれるのを楽しみに待ちたいと思います。が、2人がその後も固い絆で結ばれた関係であったことは確かなのではないかと。

 

 景光くんが冒頭の台詞を言ったシーンは高明さんの回想ですが、その姿を見るに、おそらく小学校の中~高学年のときに2人は出会ったのだと推察されます。年齢的には10歳前後。この時期が人間関係の発達に大切であることを示したのが、サリヴァンというアメリカの心理学者です。20世紀の心理学者の中でも大天才の1人ですが、世間的な知名度があまりないのは、たぶん著作がめちゃくちゃ難解だから…。

 ですが、このサリヴァンが提唱した「チャムシップ」の概念は、非常によく知られるところです。

 

 10歳くらいというのは、いわゆる自己感が形成されてくる時期です。自分はいったい何者なのか、自分はどういうふうに生きていくのか、という、社会的な感覚というか、メタ的に自分の存在を認識でき始める時期です。(サリヴァンは「前思春期」と呼びました。)

 この時期になると、子どもは「横のつながり」を意識します。保護者や先生など、縦のつながりで生きていたものが、同年代の子どもたちとどのように社会を形成するのか、自分はその中でどのような人間であるのか、という課題に取り組んでいくことになるのです。

 

 これと同時期に形成されるのが、チャムシップです。サリヴァンは特に、男の子同士の親密な関係について言及しています。同じ経験をし、感覚や感情を共有する中で、相手が自分に応答してくれる、共感してくれるという体験が行われます。これによって、不安定な状態にある自己感を強化したり、あるいは幼少期に形成不全だった愛着が内在化されたりします。

「愛着は、乳幼児期に形成されなかったら、もう取り返しがつかないものなのか?」という議論がよくありますが、近年は代償が可能であるとされています。チャムシップは、その中でも大きな機能を果たすものと思われます。

 

 さて、ゼロくんとヒロくんはおそらく、このチャムシップを形成したのではないかと思います。

 2人は、共依存の関係になる可能性も充分にあった子たちかな?と思います。愛情を欲する心を抑圧して暴力的に振る舞っていたゼロくんは、現在を鑑みるに、おそらく幼い頃から学習能力も運動能力も高かったことでしょう。そのため、「~すべき」という父性的というか、権威的なところがあったのではないかと思います。

 一方ヒロくんは、愛着は形成されているものの、まだロールモデルが充分に内在化していない時期に、ご両親を失い、お兄さんと離れ離れになっています。電話のシーンや大学生になった高明さんに会いに行っている描写、年齢が離れているところを見るに、ヒロくんはお兄さんに父性的なものを感じて育ったんじゃないかな、と。まして高明兄ちゃんは、コナン界の東大法学部を首席卒業という、利発で沈着冷静なしっかり者です。そのお兄さんと離れて東京に来たとき、ヒロくんは突然失ったロールモデルの空席を埋めてくれる人を、身近に探していたかもしれません。

 そのモデルに、ゼロくんはかなり当てはまります。2人の友情は、始まるべくして始まったと言えるのではないかと推察します。

 

 でも、2人が決して共依存の関係ではなかったことは、前思春期終了後にも「親友」として友情を育み続け、警察学校でも仲良くしている描写から推察できます。

 景光さんはまだそれほど登場回数が多くないので定かではありませんが、降谷さんはストレス耐性が強く、非常に頭の切れる人です。(ちなみに、ストレス耐性が強いからといって、人は傷つかないわけでは決してないです!)共依存というのは、当然ながら互いが依存的な精神構造を持っているときに起こります。相手を「自分がいなくては生きていけない」状態にすることで、自分の無力感から目を逸らし、自尊心を満たそうとする行為です。

 あれだけキレッキレの頭脳を持つ降谷さんも、そして警察庁公安に配属され、潜入捜査まで任された景光さんも、そういう精神構造を持っていたとは思えません。自分の精神状態を把握・統制し、行動できる明晰さが2人にはあったと考えられるので、その幼少期に共依存のようなベタベタな関係が成立していたとは思えないのです。

 

 むしろ2人の関係は、互いに不足しているものを補い合い、成長できるという、理想的な生産的関係であったのではないかと思います。互いの中に自分を成長させる対象としての役割を感じ合える関係だったからこそ、2人の友情は長く続いたのではないでしょうか。

 

 おそらく、精神的な成熟度だけでなく、同程度の知能も持っていたと思いますし…。2人ともIQ高そうですね。降谷さんなんか、日本でメジャーに行われている某知能検査だったら、150くらいのスコアは軽く出しそうです。

 あんなイケメンが検査を受けに来て高スコアを叩き出したら、世の中のあまりの不公平感に1か月くらい落ち込みそう…。でも、職業が「警察官」って聞いたら、「この人が生きてる限り、日本は大丈夫だな!」って明るい気持ちで生きていけるかもしれない…。忙しいな…。

 

 閑話休題

 降谷さんは、景光さんに出会ってチャムシップを形成できたことで、乳幼児期の愛着形成不全をある程度は代償することができたと推察します。

 ただ、10歳くらいまで培われ、内在化されてしまったパターンはなかなか払拭するのは容易ではありませんし、降谷さんは専門機関で何か特別なケアを受けたわけでもなさそうです。それでも、「とりあえず手が出る」は、自分の無力感から目を逸らす装置であったものが、ボクシングというスポーツのかたちを取ることを通じて、「自分の持っているリソースの1つ」として制御されたのかな?とは思います。

 そのリソースを存分に使って、松田さんとやり合ったんですかね…それとも、松田さんと共闘して気に食わない人を殴ったんですかね…その辺は、警察学校編を座して待ちたいと思います。

 

 景光さんとの友情を通じて、根底にある「不安」や「無力感」が少しずつ払拭されていった降谷さんは、更に警察学校での出会いを通じて、乳幼児期の愛着不全をリカバーしていっていた…はず。

 だからこそ、警察学校の面々、特に景光の死は、降谷さんにとって、ただの友だちの死以上のものがあったと思います。今おそらく、降谷さんは「喪の作業」の最中なのではないかと思います。公安の潜入捜査官として働きながら、人生を支えてきた親友の喪の作業をするって…ほんとに、よく生きているな、この方…生きていてくれてありがとう…。いいよ、仕方ないよ、モノレールの線路を爆走するくらいは…死ぬよりずっといいよ…。

 

 そして、この「喪の作業」にあまりに深く関わる赤井さんという人が、降谷さんの中でいかなる存在であるのか、という考察も、後日、私なりにしてみたいと思います。「ねえ、なんで赤井さんの変装したの!?」というあたり特に、本当に…心理的にものすごく複雑な方だなあ。