Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理】降谷さんはなぜ赤井秀一の姿になったのか②

 「火傷赤井」さんの件の続きです。

 前回、 降谷さんの謎の変装には、次の2つの要素が関わっているということを書きました。

 

①降谷さんが赤井さんを(バーボンがライを)嫌っていたこと。

景光さんの件。

 

 今回は、②の方を詳しく考察します。

 

 景光さんの死は、降谷さんという自我構造に脆弱性のある人の、その脆弱な部分に決定的にヒットしたと思います。景光くんとチャムシップを形成することで満たされ、守られることを知ったゼロくんにとって、景光さんは特別の上にも特別な存在だからです。

 

 警察学校の仲間の死と景光さんの死が決定的に違うのは、降谷さんの自我構造に、どれだけ深く関わっているかということです。年齢的に、ある程度の構造化がなされてから出会った(であろう)警察学校の仲間に比べ、景光さんはあまりにも、降谷零という人の構造に深く、強く関わりすぎていました。

 

 景光さんを失ったとき、降谷さんは20代も半ば。ある程度の構造化が済んでいたので、心が決定的に壊れることはありませんでした。愛着の対象としてきた両親や親しい友人が亡くなっても、それを乗り越えて生きている人は、世の中にたくさんいます。大切な人の死に直面しても決定的に心が壊れないのは、対象によって自分の心がしっかりと守られているという事実は、たとえ対象が亡くなっても消えるものではないからです。

 

 でも降谷さんは、景光さんの死について、今は受け容れられていないようです。それはなぜなのでしょう。

 まず、景光さんの死が自殺であること。潜入捜査中の殉職であること。この2点は、一般的な病死や老衰よりも受け容れが難しい要素です。ただこれも、ストレス耐性が高く、潜入捜査官としての景光さんの仕事に対する姿勢や覚悟を理解していたであろう降谷さんにとって、受け容れるのがどうしても難しいという要素としては弱いです。少なくとも、数年も引っ張る要素としては。

 

 最も禍根を残したのは、やはり「ライという嫌い抜いている存在が、その場にいたこと」だと思います。

 いただけではなく、その男の拳銃により親友が自分の胸を、そして降谷さんたちのデータが入っているスマホを撃ち抜いてすらいるのです。

 

 ①で考察したように、降谷さんはライに自分を投影しています。「ライが嫌い」は、自分の中の「影の部分」をライに投影しているから生じる感情だと思われます。

 降谷さんは自決した景光さんの前に立つライを見たとき、燃えるような怒りや、立ち上がれないような空虚感を感じたと思います。

 目の前にあるのは、ただの知り合いが親友の死を導いたというだけのシーンではありません。自分が嫌悪している自分(=影)をライに投影している降谷さんにとって、その光景は、「自分の影が、親友の死を導いた」というシーンでもあるからです。

 

 降谷さんは、このあとますますライ(赤井)に対して厳しい態度を取ることになります。緊急事態の最中に観覧車の上で殴り合いをするほどに。あそこにコナンくんがいて、本当によかった。

 

 降谷さんは本質的には、赤井さんを責め、殴っているのではないのだと思います。降谷さんが本当に責め、殴っている対象は、脆弱な自分です。「殺したいほど憎んでいる男」というのは、おそらく自分のことです。

 

 降谷さんが階段を駆け上がる足音が景光に誤解を与え、引き金を引かせた。そういう理解の仕方もありますが、もしもあの足音が降谷さんのものだとわかっていても、景光さんは引き金を引いたかもしれないとも思います。

 日本の潜入捜査官である景光さんは、目的を同じくするアメリカの潜入捜査官である赤井さんを、危険に晒すわけにはいかないからです。被害を最小限に抑えるには、自分が死ぬしかない。景光さんは命のかかった局面にあっても、冷静にその選択ができるからこそ潜入捜査官であったのではないかと思いますし、降谷さんも景光さんがそういう男であることは知っていたのではないでしょうか。

 

 そして何が真実なのであれ、降谷さんは、景光さんを死に導いたのは自分だという感覚を、今も無意識の中で抱いているのではないかと思います。繰り返しになりますが、投影を自覚しているであろう降谷さんにとって、ライという男は、ライであると同時に、「降谷零の影」という存在だからです。

 

 この2点をふまえ、本題の「なぜ降谷さんは赤井さんの姿になったのか」を考察していきたいと思います。