Hyakuyo's Box

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降谷零と彼を巡る人々の心理学的分析・考察

【心理・所感】降谷さんにとって愛とは何か〜「愛の力は偉大だな」

「愛の力は偉大だな」。

「ゼロの執行人」の中で、私が最も「降谷零という人間」を感じた台詞がこれでした。

 

 同時に、「ああ、ゼロの執行人の裏テーマは、愛だったのか」とも。

 

 もしもこの台詞がなかったなら、私は降谷さんを「公共の利益を守るため、やむなく鬼に徹してコナンを利用した公安警察官(裏では罪悪感に歯ぎしりして耐えているかもしれない)」などとも想像したと思います。

 が、この台詞とさわやかな口調、表情を見て、「あ、そんな感じではないな」と思いました。ちょっと降谷さんは愛に対する認識が普通ではないな、単なる「酸いも甘いもかみ分けた大人が子どもをからかっている」だけでは済まないものがあるな、と。

 

 だってまず何よりも、降谷さんは確信犯だったもの。目的は最初から「コナンくんの推理力と行動力」で、それを引き出すために、コナンくんの蘭ちゃんに対する愛を利用したんだもの。

 

 つまり降谷さんは最初から知っていたじゃない。「愛の力は偉大だ」ということを。

 

 「コナンくんが何のためなら本気になるのか」ということも、「人間を動かす最大の情動は怒りである」ということも、降谷さんは知っていた。(サイヤ人超サイヤ人になるのに必要なのも「怒り」でしたね…。)

 コナンくんは、愛ゆえに本気になるし、愛ゆえに怒る。「それとも、蘭ねえちゃんのためかな?」などと、コナンくんの怒りの炎に、酸素をバッタバッタと供給している姿は、見ているこっちが「あああああー!」となりました。

 

 降谷さんは、別にコナンくんに「愛の力は偉大だな」などと言う必要はなかったのです。目的はもう達せられ、あとは一か八かの力技勝負で、カプセルの軌道を変えられるかどうかだけなのです。

 が、この時点で、コナンくんが解けていない謎がたったひとつあります。「どうして安室さんは、小五郎のおじさんを犯人に仕立て上げたの?」警視庁の屋上で、降谷さんはコナンくんが、まだこの謎を解いていないこと(降谷さんの真意に気づいていないこと)を察知したと思います。

 そう思うと、「愛の力は偉大だな」というこの台詞は、まだコナンくんが言葉にしていない最後の謎への、最大のヒントだったのではないかとも思います。

 が、コナンくんはこの台詞に、「え」と呆れた表情で応えるのみです。

 コナンくん(新一くん)は、まだ子どもなのだなあ、と思います。もしももう少し大人だったなら、きっと降谷さんからこの台詞が出た時点で、ピンとくるものがあったことでしょう。「この人の目的は最初から俺で、そのために俺の蘭に対する愛を利用したのか?」と。

 

 気づくか気づかないかわからないけど、言う。愛という言葉を口に出す。

 ここで「愛」という単語が出てくるあたり、降谷さんがそれをかなりはっきりしたものとして認知していることがわかります。

 

 コナンくんと蘭ちゃん。小五郎さんと英理さん。日下部さんと羽場さん。境子先生と羽場さん…。これほど、愛というものが複雑に交錯したコナン作品も珍しいのではないでしょうか。

 それなのに、メインキャスト降谷さんの、特定の人物に対する愛は描かれません。むしろ、愛を利用したものとして、降谷さんは存在します。自分を悪者にしてコナンくんの本気を引き出すの…すごく何というか、「自分を大切にしてない感」が出ています。承認欲求がマイナス方向に振り切れそうです。

 

 降谷さんに恐ろしいほどないのは、「承認欲求」です。あれほど有能な人であれば、自分の能力を周囲に認められたい欲求は、普通はあるはずです。まして、根底に不安や無力感を抱えて生きている降谷さんは、本来なら人に認められたいはずなのです。そうすることで、安定したいはずなのです。本来なら。

 が、降谷さんには、「我の為すこと我のみぞ知る」とでもいうような、自己完結の力を感じます。自己顕示欲がない!自己顕示欲の強い潜入捜査官なんていないとは思うけど、あまりにも…!

 

 承認欲求や自己顕示欲は当然ながら、「人に認められたい」「人に愛されたい」という気持ちに由来します。心理的な成熟度が高まれば高まるほど、承認欲求や自己顕示欲は低下しますが、それでも完全に「なくなる」ということはありません。むしろ、「成熟した心理」というのは、相手に対して適度な要求ができる能力でもあります。人には自尊心があり、それをある程度保つには、他者からの承認が必要だからです。

 そのため、相手にまったく要求しない(無視されたり悪く思われたりして構わない)というのは、自尊心があまりにも低いことを表すという一面があります。もしも降谷さんが修行僧か何かで、解脱を目指しているとかであれば話は別なのですが…そういうことではない…。

 

 そうすると、導き出される結論は悲しいものになります。

 

 ああ、この方は、愛の力を信じているけれど、もう自分が主体となって愛情を受け取る、与えるという世界からは抜けた人なんだ。

「愛は失うものだとわかったから、もうその世界から抜ける」という選択をすることで、自我を防衛している気配がする。それが最も合理的な解決だと考えて、明晰に整理しきってしまっている気がする。

 

 ただ、降谷さんには、自尊心があります。 

 その自尊心を支えているものは、誇りであり、「命に代えても守らなくてはならないものがある」ことです。「誇る」も「守る」も、目的語が必要な言葉です。いったい何を?

 守ろうとしているのは、コナンくんと蘭ちゃんに代表されるような、市井の人々の間で日々交わされている「愛」だと思います。

 そして誇りは、それを守るため、完璧であろうと力を尽くしてきた自分自身なのではないでしょうか。

 降谷さんは、愛に関して主体にはなりません。でも、それを交わし合う人々を、守りたいと思っているのだと思います。とても強く。もう自分が手にいれることを諦めたものを、まだ手に入れられる人がいる。そういう人たちを守ることができる力が自分にあるなら、それを惜しみなく使う。

 そういう覚悟をしているのかな、と。それが、降谷さんにとっての、愛というものへの関わり方なのかな、と。

 

「愛の力は偉大だな」。

 コナンくんにこの言葉を言うとき、降谷さんはコナンくんを、「愛を知っている人」と認識して伝えています。自分は持っていない愛を両手いっぱいに抱えて戦っているコナンくんに対し、平気な顔でそれを言う降谷さんの表情にも口調にも、羨望や嫉妬はひとかけらもありません。だからこそコナンくんは、その言葉に秘められた降谷さんの根底にあるものに気づけないのです。単なる大人からの茶化し、からかいとしてその言葉を認識しています。

 ここに、両親からの愛情を一身に受けて育ったコナンくん(新一くん)と、同級生のお母さんに母性的な自己対象を求めるしかなかった降谷さんの悲しいほどの温度差があります。コナンくんと降谷さんは、別の川に見えます。流れがたまに近づくことはあっても、交わってひとつにはなりません。このシーンでも、降谷さんはコナンくんにわかってもらおうなどとは欠片も思っていないし、コナンくんも気づきません。

 

 ところで、なぜ降谷さんは、これほど「愛」というものの偉大さを知っていながら、コナンくんの愛を利用することに躊躇がなかったのか。

 それはおそらく、「自分がすることは、コナンくんや蘭ちゃんを決定的に壊すことにはならない」と確信していたからではないでしょうか。コナンくんや蘭ちゃんが、「愛情」というシールドに守られていることを、降谷さんは安室透として近くで見ていて知っています。たとえ一時は泣いたとしても、必ず彼らは回復する。なぜなら彼らの心は、そう簡単に壊れないよう、幼少期からの家族の愛でしっかり守られているからです。

 降谷さんがコナンくんの正体に気づいているかは不明ですが、少なくともコナンくんの蘭ちゃんに対する愛情が、幼い頃の自分がエレーナさんに対して抱いていたような悲しい切実さを持っていないことは、感じていたと思います。コナンくんの愛は、体が小さくなり、正体を隠していてすら、まっすぐで澄んだ愛です。優作さんと有希子さんの新一くんに対する愛が、たとえ新一くんが小さくなってしまっても変わらなかったように。

 

 ただしコナンくんと蘭ちゃんを決定的に傷つけないためには、どうしてもコナンくんを傷つけずに蘭ちゃんの元に返す必要があります。死んだら終わり。それは降谷さんがいちばんよくわかっていることです。それが、降谷さんがコナンくんをひっ掴んでビルに飛び込んだ、あのシーンの必死さに現れているように思います。降谷さんが流した血は、コナンくんへの贖罪の分というか、支払った代償という役割を果たしていることになるでしょうか(自らカタをつけた…)。

 

 が、結果的に降谷さんも命を落とすことはなかったところに、「名探偵コナン」という作品自体の救いの大きさがあるように思います。降谷さんもまた、たとえ血を流しても救われることができるのではないでしょうか。それがどんなかたちの救いになるかはわかりませんが、たぶん、コナンくんたちの持つ愛によって。

 

 愛の力は偉大だな…!!